「ノクターン」

ノクターン 夜想曲」(Co.山田うん) 12月10日、北九州市J:COM北九州芸術劇場

 

 暗闇のうちから歪んだ大きな輪を掲げた男女10人のダンサーが現れる。薄暗い照明の中で静かにダンスが始まり、曲の変化とともに舞台が徐々に明るくなっていくのと合わせてダンサーたちの動きのテンポが上がっていく。洗練された身体が織りなす軽やかでしなやかな表現はロマンチックで美しい。だが、約70分の作品終盤を迎えたころ、それだけではない何事かに触発されて心のうちが振動したように感じた。心に響いたものは一体何だろうかと考えている。

 美を希求する芸術表現に関して、表現の意味を問うのは場合によってはナンセンスかもしれない。しかし、演出、振付の山田うん自身がこの作品について<混沌とした時代の中で、平和的な振る舞いの形について考え><無意味ではないことの連続で、身体風景の物語を作>ったと記している。現代に生きている中で何かに触発されて、言葉ではなく、身体でしなやかに、あるいはアクティブに思いが巡る振る舞いをなす。振付や演出を加え、ノクターンの甘美で濃淡あるメロディーとリズムに乗せてダンサーたちが舞台で躍動する作品へと昇華させる。ただ単に「美しい」だけでなく、躍動的な美に触れて何事かを感じる契機の種が客席に飛び、観る者の心を揺らす。

 今作品を特徴づけるのはダンスの道具として用いた複数の輪だろう。数人が中に入れるほど大きいのだが、いずれもいびつに歪んでおり美の端正な空間に異様な雰囲気さえ漂わせる。見える角度や動かし方で、波に見えたり、海原の船に見えたり、ゆりかごに見えたり、ハート形に見えたり、人間を囲い込む柵に見えたりする。もちろんそのように踊っているのだが輪の中のダンサーの動きは小さく窮屈になる。外で気持ちよさそうに踊る別のダンサーに近づこうとするものの輪に阻まれるシーンもある。

 様々に解釈はできる。実際、観る人ごとに感じ方、見方は異なるだろう。今現在の日本社会に生きる一人として、それら歪んだ輪は、個々の人間に本来備わっているはずの自由を束縛している社会の精神や価値観、人々が無意識のうちにからめ取られている時代の空気の網などと解釈しても許されるだろうか。本当に自由な表現は束縛から解き放たれた心の自由があればこそ可能だ。そんなことを考えさせられたダンス作品だった。音楽はヲノサトル。(臼山誠)

「草香江ポエトリークラブ」

草香江ポエトリークラブ」(灯台とスプーン) 12月2~3日、福岡市・湾岸劇場博多扇貝

 

 昔ながらの喫茶店を舞台にした芝居は静かに進んでいく。コーヒーの豆を引きドリップする場面。コーヒーの雫がぽとぽとしたたる音と香りが静かに漂う。ジョアン・ジルベルトのレコード「三月の水」をかける。針とレコード盤が擦れる音、続いてギターの音色が心地よく空気を揺らす。電気プレートでホットケーキを作る。焼けていく香ばしさを観客たちも共有する。詩や歌を黙読する際にはあふれ出てくる詩情や情景を効果音などで表現する。小劇場の小さな空間を効果的に利用し、視覚、聴覚、嗅覚を刺激して観劇する者を物語の中に包み込んでいく。作、演出の田村さえの手法が印象に残った。

 大濠公園(福岡市)の南に位置し、万葉集大伴旅人の歌にも出てくる古から続く土地、草香江にある喫茶店「シトロン」。古い喫茶店に土地のありようを象徴させ、草香江という町はそんな雰囲気の町であることが表現される。そして、人生の道程でたまたまこの店に集い、それぞれの事情で離れていった店主やアルバイト、客たちの過去と現在を結ぶ人情が交錯するストーリーが展開する。本作の場合は喫茶店だが、一つの場所が往時の姿を保ちつつ存在し続けることで、関係する者たちの心が時の流れとともにその場所に蓄積されていく。離れていった者もふとした拍子にその場所に思いを寄せると、あるいは久しぶりに立ち寄ると、心が触発され、何事かを思い、過去を確認し、また一歩ずつ未来へ向けて人生を歩み始める。しかし、開発などで場所の姿が変貌すると、古今をつなぐ拠り所を喪失してしまう。芝居を観ながらそんなことを考えさせられた。

 タイトルに表れている通り、場所と同じように心の奥底の琴線を揺らすものとして、詩についての会話が劇を通して交わされる。論理的な文章では伝えることができない、詩歌にこもる心情。草香江という地に愛着やつながりを持つ者たちが、草香江の地で詠まれた詩歌に触れることで、古今の時代を超越して詩人の心根を感じ、触発され、何事かを思う。そして再び詩歌を紡ぐ心が土地の記憶を未来へつないでいくのだろう。旅人の歌「草香江の入り江にあさる葦鶴の あなたづたづし友なしにして」も劇にうまく取り込んでいた。優しく温かい空気に包まれたような余韻が残っている。出演は柳田詩織、村岡雄輔ら。(臼山誠)

「2022」

「2022」(飛ぶ劇場) 111012日、J:COM北九州芸術劇場 

 

 歴史的に俯瞰すると昨年の2022年はどんな1年であったのか。同時代人として読み取れないか。もし、2022年が歴史を画する分岐点であることが読み取れるならば、より良き未来へ向けて、もしくは未来の悲劇を防ぐために私たちは一人ひとりがなんらかの選択や行動ができるのではないか。 

 作、演出の泊篤志がそのために用意した仕掛けは、ネット上で話題になった「未来人」による予言の手法。2062年から来た男(木村健二)を芝居に登場させる。確かに今現在の状況を考察するために数十年先に基点を設けるのは有効な手段だ。論理的な分析と推測で未来のありようを想定し、そこに到達する歴史のうえで現在はいかなる過程として位置づけられるのか。 

 昨年は安倍元首相暗殺や旧統一教会問題、ウクライナ戦争勃発、急激な円安、安保三文書改定、コロナ禍の長期化など不穏な意味で多くの事柄が印象に残る1年だった。物語の舞台は、そんな固い問題意識とはかけ離れた場所に見えるコンカフェ(コンセプトカフェ)。店のキャストでアイドルとして働く女性3人と客たちとの掛け合いのうちに、自分たちの日常の暮らしにも国内外の諸問題の影響を受けた物価高などの事象が起こっていることが徐々に浮き彫りになっていく。実はカフェの新人アイドル(徳岡希和)は未来の世界規模の悲劇を防ぐ働きをする可能性をもった人材の一人であり、悲劇防止の使命を帯びて未来から来た男が客として彼女に接触、人生のとある選択をするように導いていく。 

 ウクライナ戦争は、ウクライナに武器を供与する欧米諸国とロシアによる戦争であり、実質的に第3次世界大戦は始まっていると主張する論者がいる。本作でもこの主張を取り入れ、2022年は世界大戦の始まった年として世界史に刻まれるのだとされる。現在進行中のイスラエルのガザ侵攻も世界大戦の一環だとして男は予言する。私たちはハマスのミサイル攻撃とそれに続くイスラエル軍の無差別殺戮の報道に今まさに接している。旧約聖書に描かれたパレスチナの地の戦争と殺戮、ユダヤ教徒と異教徒の憎しみの連鎖と同じことが繰り返されていることを目の当たりにし、数千年の昔から人間の性、愚かさが変わっていないことに愕然とせざるを得ない。 

 この作品で、世界規模の悲劇を経験した後の2062年には人間は政治を放棄しAIの指示によって平穏な生活を送っていると語られる。AIに支配されるSF的な未来は空恐ろしくもあるが、上記のように人間の愚かさが克服しようのないものであるとすれば、ありうる未来像に思えてくるからさらにゾッとする。 

 だが泊は人間への希望を捨てない。登場人物たちはラストで、一人ひとりしっかり幸せを求めて人生を歩んでいくことを決める。時代の潮流や社会の風潮、あるいは組織や宗教の論理に流されず、自分自身と向き合い地に足をつけて人生を歩んでいく個人が増加することで、歴史は穏やかな方向へ動いていく。そんな思索がこの芝居に込められているように思う。他に佐藤恵美香、葉山太司らが出演。121617日には長崎でも公演する。(臼山誠) 

「イエ系」

「イエ系」(北九州芸術劇場) 10月26~29日、北九州市J:COM北九州芸術劇場

 

 家族とは何かを正面から問う作品に仕上がっていた。家族の結びつきが薄くなった現代社会を逆説的に批評する意図が作・演出の松井周にはあったかもしれない。

 近未来の北九州市が舞台。人口減と少子高齢化が進み、後継者不足などから閉店する商店が増え、商店街から活気が失われている状況を背景として描く。市はその対策として、様々な理由から家族を失い孤独である人たちを数人単位で集め、家族のふりをする「再家族」として認定し、参加者には特権を与えたうえで商店街で店を経営させる。ただし、個人の独立は保護され、疑似家族間の情交や必要以上の介入は禁止される。

 芝居ではラーメン店のオープンを間近に控えた疑似家族が、典型的な昭和風の家族団らんを楽しむトレーニングが続けられる。近所に「占いカフェ」を開店する予定の別の疑似家族が現れ、その母親役と娘役の2人が、ラーメン店の父親役の男性が20年前に捨てた恋人と実の子であることが判明したことから物語が輻輳していく。

 契約上の疑似家族と実の親子を対比しつつ互いの混乱を描いた点が本作のツボである。家族とは本来、無条件に互いが結びつけられるものである。鬱陶しくもあるが、その存在が支えにもなる。関係を切ったつもりでも、心のうちから家族の存在を絶対的に排除することは困難であろう。作中の父親役も実の娘とその母親の出現におののき、目の前に存在していること自体に苦しむ。

 タイトルにある家(イエ)という考え方は、伝統的な家父長的性質を引きずり、因循な部分を持つ。現代日本では、家族の過剰な愛情や介入、縛りつけ、もたれ合いなどから逃れようと、旧来の家族の結びつきの分断が進んでいるのは確かだろう。しかしそこには、決して逃れられないもの、断ち切ることができない心のつながりがあるはずだ。その心性の根源にあるのは、血のつながりなのか、家族だった原初の記憶や親子として一緒に暮らした経験なのか。では家族のふりの経験を重ねていくことで「再家族」にも芽生えてくるものなのか、あるいは別の何某かの要因があるのか。芝居を観ていてそういった問いが湧き出てきた。

 演出の松井は東京の演劇ユニット「サンプル」主宰。制作のために2年かけて北九州の人々との交流、取材をした。地元の土壌を掘り起こして演劇を制作する北九州芸術劇場の企画だ。日高啓介(東京)や北九州や福岡で活動する高山実花、上瀧雅大、寺田剛史らが出演。東京芸術劇場でも11月4、5日に公演する。(臼山誠)

「シン青春ピンチヒッター~激闘生徒会編~」

「シン青春ピンチヒッター~激闘生徒会編~」(劇団ジグザグバイト) 10月8~11日、福岡市・ぽんプラザホール

 

 エネルギッシュでハイテンション。歌あり、ダンスあり、アクションあり、ミュージカル風演出あり、さらにはピザ回しやヨーヨーの技の披露あり……盛りだくさんのエンタメ作品だ。ストーリーのバカバカしさを徹底しており、単純に面白かった。役者は一人数役以上をこなす。舞台裏では素早い衣装チェンジや目まぐるしい出入りなど大変だっただろう。敵味方入り乱れての格闘シーンの殺陣をはじめ、鍛えられた役者たちの演技には感心させられた。稽古の深度が想像される。舞台両端の幕を使ったヒーローへの変身シーンなど、少しでも役者同士の演技がずれれば粗が目立つ場面も丁寧な演出と演技でこなしていた。

 物語は、高校を強圧的に支配する生徒会に対して、ヒーローに変身する能力を持った転校生(八坂桜子)を中心に一部の生徒たちが立ち向かうというもの。生徒会を操る悪逆の理事長(石橋半零)の実像に気づいた生徒会長(吉永悠人)をはじめ回し蹴りを武器とする書記(小川李紗)ら生徒会幹部たちも終盤に改心し、造反した生徒らと協力して戦う。

 既視感のある設定とストーリーではある。「戦隊シリーズ」をはじめ「仮面ライダー」「北斗の拳」といったアニメや映画、テレビドラマのパロディーだと明らかに分かる場面も多い。そもそもが「戦隊シリーズ」のパロディーだったテレビドラマ「ザ・ハイスクールヒーローズ」のさらなるパロディーだとして観れば、それはそれで楽しい。だが重要なのは、単純なパロディーではなく、役者たちの激しい演技の熱量と練度を突き詰めようとした舞台表現であるということだろう。そして、声高に叫ばれる正義というものは、独善的な主張の押し付けであり、疑ってかかるべきだとの問題意識もじわり練りこまれている。

 既に人気劇団への道を歩み始めているのだろう。祝日昼の小劇場は満席で中学生らしい集団も来場。全体的に若い層が多かった。今後も激しく熱量の高い芝居の路線を続けていくのだろうか。劇団の飛躍の可能性を感じさせる公演だった。作、演出は到生。出演は他に白瀧姫翠、高橋力也、小沢健次、麻倉えいみら。(臼山誠)

「ひとんちで騒ぐな」

「ひとんちで騒ぐな」(万能グローブガラパゴスダイナモス) 9月7~9日、福岡市・西鉄ホール

 

 2008年に初演した劇団初期代表作の再演。作・演出の川口大樹がフライヤーに「これ以降に書いたいくつもの劇の根元にはこの『ひとんちで騒ぐな』があるような気さえしています」と記しているとおり、これぞガラパ、と感じさせるシチュエーションコメディーだ。

 率直に楽しく110分間が瞬く間に過ぎた。上京して役者になる夢がかなわず映像制作会社でADをしている青年が番組の地方ロケのスタッフとして久しぶりに帰郷する。すでに他人の所有になっていることを知らず上がり込んだ旧実家に、様々な事情を抱える人間たちが偶然集まる。町長選に立候補するか迷い続けている男、二股をかけている男2人が鉢合わせして慌てる女、青年を将来のスターと誤解している女……。すれ違い、交錯、衝突を重ねながら、玄関や勝手口を巧みに利用して出たり入ったりの鬼ごっこやかくれんぼのようなドタバタが展開する。隠れた者たちと捜す者たちで織りなす押し入れのふすまを使った演出が面白い。

 大騒動の根幹にあるのは、青年が役者になれずADとなった現在の自分を恥だと思っていることだ。学生時代にリーダー的存在だった自分の「おちぶれた姿」を郷里の知人たちに見せたくないと必死に取り繕うのである。ガラパの芝居によく出てくる自分本位の群像が、短期的な自分の利益のために、うそをつき、騙しあい、取り繕い、見えをはる。薄いベールが剥がれ落ちないようにジタバタもがくのだが、事実が露わになる過程のハラハラ感が巧みに笑いに転化される。

 初演時はひたすら楽しいドタバタ劇だったとの記憶がある。今回はコメディーの果てに、人間は今の自分を率直に受け入れてこそ前に進める、とのテーマ性が強く表現された印象が強い。終盤の「かっこわるいことをかっこわるいと思うことが、かっこわるい」のセリフが十分に生きて観客の胸に刺さってきた。人生経験を蓄積した演出家の心情の表れか、あるいは劇団として成熟してきたのか。劇団の根っこにあるともいえる作品の再演でなにごとかを確認したであろう。ガラパ作品が今後どのように展開していくのか非常に楽しみである。

 役者陣では風呂上りの設定で大半を上半身裸で演じた土居祥平のとぼけっぷりに味わいがあった。青年AD役は古賀駿作で、他に主宰の椎木樹人、千代田佑李らが出演。(臼山誠)

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 10月2日にはユネイテッド・シネマキャナルシティ13(福岡市)で上記公演の舞台映像の上映会も行った。映像が映画館の大画面に映し出されると、アップや芝居の勘所に焦点を当てたシーンなどで、演劇本番を見たときに気づかなかった細やかな俳優の表情や動き、隅々まで工夫、配慮された小道具の妙に気づかされ新鮮だった。カメラワークを駆使し編集した舞台映像を作品として公開するのは劇団新感線のゲキ×シネなどが知られるが、九州の劇団としては珍しい試みだろう。劇団として今後もこのような新しい試みに挑戦していくそうだ。

「捨てられない女たち」

「捨てられない女たち」(劇団HallBrothers) 82527日、福岡市・ぽんプラザホール 

 

 建設されて半世紀以上経つ大型団地が舞台。かつて若い核家族が大挙入居したニュータウンでは住民の高齢化、過疎化が進み、日本全国で問題となっている。本作の団地も例にもれず、一人暮らしのお年寄りの孤独死を防ぐことを目的にコミュニティーの再生を図ろうとしている。大学建築工学科の講師とおぼしき男性研究者が音頭をとり、住民有志や学生と協力して団地の一角にカフェを開く。団地の老若男女が集う場にして、そこを起点に団地内の人と人とのつながりを取り戻そうという試みだ。 

 カフェのスタッフや周囲の者たちの団地への思いや本音がバラバラだったことからカフェの運営は迷走する。生まれ育った団地への愛着と活気のあった過去へ郷愁を抱く者、古いがゆえの家賃の安さを理由に移ってきた者、一軒家を建てる金をためるため一時しのぎのつもりの者……。分け隔てなく住民だれでもが集える場にしようとする女性店長の懸命さの前に、一応はスタッフみなが協力するのだが、運営責任者たる講師がこの試みについて本音では自身が准教授へ出世するために実績をあげる手段と考えていることが露わになり、カフェの目標がコミュニティー再生から来店者数を増やすことに変異してしまう。 

 考えさせられたのは、世界的に表面化している社会の分断と対立構造の一端がこの団地の住民たちの間にも存在していること、つまり日本の市井の人々の間にも浸潤している問題として描写していることだ。店長が体現している差別を廃して平等を志向するいわゆるポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)的な思考に対し、かつてのような均質な中流家庭が集まる団地を取り戻すことを望み、新住民の外国人たちを秩序を乱す存在だと捉えてマイノリティーの排斥を主張する中年女性を対置する。さらに、実際に外国人襲撃を行う若者、治安強化の主張や成果主義の思考も織り込む。講師を支える助教か助手であろう男性研究者の常に冷静な視点が、それらの主張を相対化させ、観る者に思索を促す効果を持っていた。 

 芝居は、みなが本音を吐露しあうことで改心し、スタッフ同士が和解する結末だった。だが、思想的な対立は棚上げにされたままだ。カフェと団地の今後の運命はどうなるだろうか。余韻に不穏なものを感じたのは私だけではないだろう。作、演出は幸田真洋。萩原あや、山中祐里、綿貫美月らが好演した。(臼山誠)