「鮭なら死んでるひよこたち」

「鮭なら死んでるひよこたち」(愛知県芸術劇場) 2月16~17日、福岡市・なみきスクエア

 

 2022年AAF戯曲賞(愛知県芸術劇場主催)大賞作の受賞記念公演。戯曲(守谷久仁子作)から読み取れるのは、現代人の生への絶望とそれを乗り越えた先にあるかもしれない希望だ。今の日本において公正とされる価値意識や市民への介入の度を強める公的なものへの違和が作品の土壌にある。「人づくり革命」「マイナンバーカード」「働き方改革」など国が近年推進する政策の方向性への疑念や、情や道徳が廃れる一方で規則や契約に縛られる社会の傾向への懸念が編み込まれ、ますます息苦しくなっていく人々の生が表現される。タイトルは、子育てと社会での役割に区切りがついた女性が人生の希望を失ったありようを、産卵後すぐに死んでしまう鮭の一生に対比した慨嘆に由来する。

 かつて小学校の校門付近で児童相手に怪しげな文具などを売っていたテキ屋がしばしばいた。本作は、昔の露店でよく見られたカラフルに着色されたひよこを、校門前で小学生に売りつけようとするテキ屋夫婦(田坂哲郎、スズエダフサコ)を軸に展開する。実はテキ屋業務は、公的機関から政府の構想に基づくある目的で委託されているとの設定。真っ当な人生を歩んできたと語る還暦の女性や町内会長(神戸浩)、貧困家庭の若者(リンノスケ)、委託業務の遂行を監査する公務員(遠藤麻衣)、テキ屋を取りまとめる理事長らが絡み、大人と子ども、男と女、社会や人間の表と裏といった要素が交錯する。

 前提として市民への暴力や犯罪、動物虐待は決して許されない。その共通認識に立った上で、芝居を通じて私たちは問われる。社会や政治の主潮となっている価値観によって、正しくない、合理的ではない、美しくないなどと判断される猥雑とした諸事や人間が社会の表から退けられようとされるのは果たして良いことなのか、不合理でも、無意味無価値に思えても、一見怪しげだったりしても、いろいろな考え方、生き方が、我々のうちにある存在として認められる社会で良いのではないか、との思索が通奏低音のように響いてくる。

 戯曲に流れるこのテーマを演出の羊屋白玉が、舞台上に印象深く表現した。ストーリーの進行を5回中断し、俳優5人が数分間ずつ戯曲の中身とは直接関係ないスピーチを行う。語られたのは、この芝居や共演する役者たちへの思い、自分の欲求や生き方、夫婦の意味への問い、芸術と社会の関係性を巡る思索……。おそらくはアドリブで、ユニークな思いをユーモアたっぷりに話す。五者五様の意見表明はなかなか面白く、決して現代の価値観に沿った画一的な意識に基づくものではない、むしろバラバラの価値意識を持った役者たちが芝居という一つの表現世界を現前させていることが伝わってきた。一見無意味で非効率な物事は人間の生にとって一概に退けられるものではなく、そういった人物や諸事を表現できる演劇やほかの芸術、その他の何事かに触れることで実は私たちは生を豊かなものとしていけるのではないか。そのようにも考えさせられた。

 福岡の演劇イベント「キビるフェス」参加作品。今月22、23日には札幌で公演する。(臼山誠)