「コスモス揺れて、嘘ひとつ」

「コスモス揺れて、嘘ひとつ」(劇団HallBrothers) 9月18~20日、福岡市・ぽんプラザホール。

 

 心にしっくり落ち着く結末だった。劇場で配布された作・演出幸田真洋のあいさつ文に「人は物語なしでは生きられないと思っています」とある。確かにそうなのだろう。そして物語の中に自分のかたちに合う、自分がすっぽりはまる居場所があることが生を充実させるのではないかと思う。芝居では当初、東京発の競争社会の価値観に縛られた借り物のような物語をありがたがって田舎に移入・創造しようとするが、結局破綻する。そして土地の歴史や風土、住民の生活と心に基づく地に足がついた物語の再確認が必要であることへの気づきで終える。

 過疎の町を舞台に町おこしで観光に力を入れる住民たちの会話劇だ。私欲、過去への囚われ、失敗からの逃避、金銭的利益、個人の夢の実現、などさまざまな思いを抱えた人たちが、コスモス街道の整備と観光客を増やすことで経済的恩恵や自身のPRにつなげようとする。町おこしの目標に折り合える間は、自己の思いをオブラートに包んで協力し合う。しかし、活動にほころびが見えた途端、個々の人間のエゴが露わになり、空中分解へ向かいそうになる。

 HallBrothersが得意とする芝居展開であろう。町おこしという目標が経済的成功などの文脈で変換され、そのためにあくせく動き回り、本来の日常から乖離していくいびつな群像が描かれる。集客のために無理や背伸びをし、大げさで嘘まがいのPR表現すら用いそうになる。市場経済的価値観をベースに置いた同床異夢のWinWinの関係に基づく表面的妥協が、いかにもろいものか…。人間関係の基層に契約的思考が置かれるのが当たり前のようないまの社会への強い違和が本作から伝わってくる。終盤、観光資源としてクローズアップしてきたコスモスが台風でほぼ壊滅する。しかし、台風一過、つきものが落ちたように住民たちが我欲や我執から解放されて穏やかに語り合い協力していく姿の萌芽に、ほっとする空気が劇場内に生まれた。登場人物たちそれぞれの心情と身丈にあった居場所を見出せる地域の物語を紡いでいくであろう予感が余韻として残る。

 全編を通じて浮かんできたのは次のような主題だ。東京を中心に形成されてきた画一的ものさしで地域の物語を人工的につくるのではなく、合理性や効率性などという概念を無批判に我々の生活に落とし込むのでもなく、当該の土地や集団で生きていく住民の幸福や誇りとは何かを見つめなおし、置き忘れてしまっているかもしれない自分たちの視点で語りうる物語を再確認することから歩を進めるべきではないか――。私たちが保ち続けるべき大切なものがそこにはあるに違いない。

 現実を省みて、職場でもいいし、地域コミュニティーでもいい。家族でもいいし、趣味のグループでもいい。それらの人間の集まりが育む物語の中のどこか一つに、疎外を感じない自身の居場所があることはどの個人にとってもきっと大事なことなのだろう。観劇後、その思いをかみしめている。劇団と幸田の表現の熟度が深まっているように感じる佳作である。出演は唐島経祐、佐藤茉優希、萩原あやら。(臼山誠)

「ちょっと待ってください!」

「ちょっと待ってください!」(劇団池田商会) 9月4~6日、福岡市・ぽんプラザホール

 もしもミステリー小説に出てくる架空の人物が自我を持ってしまったら――。ユニークな設定が面白かった。いざ生身の自分が小説や映画などミステリーフィクションの世界に実在すると想像してみると、周囲で起きる出来事などで不自然に感じることどもが思いのほか多いかもしれない。

 この設定を土台にすれば物語をいろいろな方向へ運んで行けるだろう。本作は大きな視野で捉えると、商業主義(資本主義)が過度に浸潤する現代社会への違和をふつふつ感じさせる方向へ向かっていった。

 主人公は、現職総理が実は名探偵だという奇抜な推理小説シリーズの主要キャラクターである。この小説の作者は全体像を固めてから執筆に着手するのではなく、執筆をしながら推理を働かせ犯人にたどりつくタイプだそうだ。おそらく当該小説では序盤から中盤にかけてさまざまな伏線らしきものが描かれるが、ある時点=作者が犯人を特定した時点から、それまでの描写が犯人の行動や動機、トリックに結びつくように回収されていくのだろう。強引かつストーリーに都合良く…。

 フィクションの世界をリアルな現実として生きるキャラクターを措定すると、彼らにとってはたまったものではないこともあるだろう。小説家の筆如何によって翻弄される悲哀、ストーリーが成立するのと引き替えに起こる不条理への割り切れなさを想像してしまう。主人公は憤然として、シリーズ全般に「雑な推理」や「ワンパターンの展開」が満ちており、このシリーズはただひたすら消費されているだけだと言い放つ。そして作者の心が投影されている登場人物がいるに違いないとして「作者捜し」の謎解きを始める。なかなか興味深い展開だった。

 印象に残ったのは、作者=小説内の架空社会を絶対的に支配する神のごとき存在=が現実の世界でうっくつを抱えているさまを描いた終盤のシーンである。自作を刊行するためには編集者の指示に従わざるを得ず、本当に書きたい展開や物語を書くことが認められない。編集者の関心事は、広く売れてお金になる作品をいかに書かせるか、である。娯楽作品といえども文学性やミステリーの魅力を小説家とともに深く掘り下げる姿勢は希薄である。前記の主人公が嘆いた「雑な推理」等の元凶は、ここでは、編集者が従順な資本主義、商業主義の論理ということになる。

 ところどころでかつてのテレビドラマ「火曜サスペンス劇場」の場面を連想させるなど、作・演出の瀧本雄壱の射程は小説のみにとどまらないだろう。過去、芸術芸能が商業的に消費されてきた側面は否めない。しかし、現代日本では経済の論理があらゆる分野で臆面もなく前面に出てきており、芸術芸能の価値も商業価値に安易に類比され、諸々の作品は消費社会の一商品とみなされる傾向が過剰になっていないだろうか。経済とは異なる次元で人間その他のありようを問う何かが芸術芸能に確かにあることは決して否定され得ない。であるのに資本主義的価値観の中にその別種の価値が埋没してしまう状況下に我々はいるのではないか。観劇しながらそんな制作者たちの思いが舞台上ににじみ出ているように感じられた。出演は久保大輔、松本裕子ら。(臼山誠)

「羨望」

「羨望」(劇団テンクウ) 8月21~23日、福岡市・ぽんプラザホール

 

 役者たちの演技と、生演奏、映像の重ね合わせがこの芝居を特徴づけた。ある時は重く、ある時は静かに流れる電子ピアノの音色、登場人物の視点で投影される夜道の光景など、とくに心象風景を増幅させる効果によって小劇場の空気を波打たせ、物語の起伏を大きくする。終始舞台の上で演奏を続けた武下詩菜によるラストの歌唱シーンが印象深い。物語の果てに登場人物がようやく掴み得ることができた救いと人間の温かさが集約された歌声が、体にしみこんでくるような感覚にとらわれた。

 歌手やシンガーソングライターを志す若い女性たちが働くミュージックバー。芝居が進むにつれ温和な紳士然とした常連客である音楽プロデューサーの悪辣な素顔が暴かれていく。変貌していく彼の言動や、デビューの希望をカタにとられ度重なる性暴力によって心が壊れていく女性たちのさま、プロデューサーの支配する小世界の内側から逃れることができず絶望の淵へ追い込まれる姿などが芝居のひだとなって折り重なり物語の密度を濃くしていく。プロデューサーに対するクライマックスの闘争で、それまで舞台に構築されていた救いのない堅牢な囲いを破ろうと衝突していく情愛と理性のエネルギーが熱量を帯びて客席に伝わってきた。

 その最中、開き直ったプロデューサーが言い放った理屈に、客席にいながら一瞬たじろいでしまった。以下のような趣旨の主張である。

①     音楽の才能があっても、力量のある他者に評価されプロデュースされなければ開花しない。

②     人生の道程で大きな苦しみや深い悲しみを経験した者ほど、その表現は深くなり味わいを増す。

③     だから敏腕プロデューサーである自分がデビュー間近の女性の心身に苦しみを与えているのは、彼女たちの音楽表現の幅を広げ芸能の世界で成功に導くことにつながる。役者を精神的に追い込むことで深い表現を創作したと肯定的に評価される演出家たちとやっていることは変わらない(つまり蜷川幸雄やつかこうへいらのことか)

 

劇中の主人公はこの極端な自己正当化の論理をかわし、歌唱や作曲など才能豊かな女性たちに対する芸術的才能のないプロデューサーの羨望が身勝手な言動の根底にあると反論。感情の問題の次元から追及する。

おそらくその通りなのだろうが、一つ考えさせられたことがある。論外ではあるが一見理屈が通っているようにも聞こえてしまうプロデューサーの論理を、同じ地平に立って論理的に打ち破っていくストーリーもあり得たかもしれないということだ。上記①②は確かにそういう側面はあろう。しかし、③に関していえば、プロデューサーの言動は、深い芸術的表現の糧になるのとは真逆で、目の前にある才能と人格を破壊しているのである。そこではもはや音楽への愛や芸術的探求心など欠落しており、音楽の可能性を自身の欲望の手段へと貶め、その手段にそぐわないと見なすや豊穣な可能性をごみのように捨てて恥じない。音楽と人格への冒涜と化している、のではないか。

それはそれとして、芝居はそんな七面倒くさい理屈など超えたところから観客を結末へ向かってぐいぐい引っ張っていく。プロデューサーとの対決は物理的な暴力の応酬となり、殴り合いや肉体のぶつかり合いの演技・演出が、偏狭な権力にがんじがらめにされている現状を打破する熱量となって表現される。他者のための手段だと決してかたづけてはならない、一個の人間の尊厳を回復するために突き進むエネルギーの昇華がラストの歌唱につながり、観客は密度の濃い空気に中に身を置いているような心地で終幕を迎えるのだ。今もまだその余韻を味わっている。作・演出は髙村剛志。出演は外埼詩織、心乃音、大迫旭洋ら。(臼山誠)

「台風0号」

「台風0号」(PandA) 8月6~9日、福岡市・甘棠館Shou劇場

 

 台風の日、公民館であろうか、小規模の避難所に身を寄せた数人の心模様を描く。非日常のひと時をともに過ごし互いに語らう中で、それぞれが屈託を抱え人生の岐路に立っていることが明らかになる。親の介護であったり、離婚であったり、ギャンブル依存と借金であったり、個人商店の経営難であったり……。そして苦しい現実から目を背け問題を先送りしている。我々は多かれ少なかれ何らかの問題を抱えて市井の日常に生きる。逃げてしまいたくなる現実の縮図がこの舞台の俎上に載せられている。

 激しい風雨のため一定時間屋内にいるしかない、ある意味運命共同体的な密室空間の中。徐々に親近感が生まれ踏み込んで語り合う。そこでは他者の心の弱さと現実逃避が何の解決にもならないことが見えてくる。自身のありようへフィードバックされることで、直面している問題と対峙する自覚が生まれ、同時に他者を思いやる心も深くなってくる。そのうえで個々が今を乗り越えていく姿に、観劇している私たちも勇気づけられるのである。現実の私たちの心が登場人物たちのような動きをするわけではないかもしれない。しかし、人間の弱さ、その性(さが)を優しく見つめ、背中を支えてくれるような空気感を醸し出す作品に仕上がっていた。

 芝居が進むうちにストーリーの主軸として浮かび上がってくるのが、かつて自身の自由と引き換えに幼い我が子を捨てた母親と、社会人に成長した今なお母親の面影を追う息子の微妙な心情の揺れである。台風がキーワードになり、避難所の人たちによる絡みが物語に推進力と凹凸を生む。悲劇的あるいは狂気を想起させる終幕へと展開することも可能だっただろうが、本作は生き別れになった母子の再会によるハッピーエンドを連想させるラストシーンを導いた。大切な人や物事と真摯に向き合い他者の幸福を求めつつ誠実に生きていくことで自らの生も豊かになる。そんな人間のありようを志向する表現の姿勢が伝わってきた。

 現在(正確には1年前だが)と過去(20数年前)の話題が脈絡不明のまま交互に進行し、徐々に交差の度合いを高めながら、最後に一つの事実に収れんする構成が面白い。終盤、子を捨てた悔恨を抱えて年齢を重ねた現在の自分(渡辺一心)と、一人で子を産む覚悟を決めた過去の若き自分(八坂桜子)の心が舞台上で重なり合い一つになる幻想的なシーンが印象的だ。

 自由とは何か、家族とは、その他、情や幸福、ジェンダーなどさまざまに考えさせる要素が芝居を通じてはらまれており、受け止め方は観客それぞれの心のありようによるだろう。舞台を四方から取り囲むかたちで客席を配置した効果もあっただろうか、物語を全体から俯瞰するような心持ちで観劇した。

 寺田剛史、椎木樹人、大谷豪ら福岡・北九州の実力俳優らが共演。味わいが深く余韻をたなびかせる作品である。脚本・演出は高梨由。(臼山誠)

「藍あやめ 紅つばき」

「藍あやめ 紅つばき~高場乱、その教え~」(甘棠館Show劇場プロデュース) 7月25~31日、福岡市・甘棠館Show劇場)

 

 幕末・明治の医者で儒学者、男性として育てられ生きた女性、高場乱(おさむ)にスポットを当てた。福岡市唐人町の甘棠館Show劇場プロデュースで、同劇場を拠点にする劇団ショーマンシップが中核を担った。福岡の歴史、人物を芝居化し再評価してきた同劇団だが、演出に東京デスロックの多田淳之介を招き、一段と深みの境地を求めようとする意欲作でもあろう。高場は亀井南冥の学問系譜を継いで私塾を起こし、武部小四郎や頭山満らを薫陶したことで知られるが一般に認知度が高いとは言えない。今作は亀井学門の志を教え子たちにつないだ教育者としての人間像を中心に描こうと試みた興味深い作品だった。

 表現のポイントの一つは、儒学や武士道に規範を置く彼女の思想及び教育の姿勢を掘り起こして咀嚼したうえで、客席の現代日本人が理解し没入できるような物語化、脚本化を行い、それをいかにセリフや演技にのせて体現させるかであっただろう。ラストシーンの主人公の嗚咽、そして暗転。長くも感じられた暗闇の中で、四角四面に生きたわけではない彼女の情の深さの余韻に心を揺らされた。説明的、うんちく的側面が強くなりがちな歴史ものの題材の中で、現代的なポップな演出や音楽的効果を前面に押し出した演出で客席を違和なく過去の精神世界へ触れさせようと試みた工夫が印象的であった。

 要は、黴臭くとらえられかねない彼女たちの思想、行動を現代日本人の立ち位置からどのように共感できるものとして掬い出し客席に肉薄させるかである。大ざっぱすぎるかもしれないが芝居を通じて表現されたのは、自分の志に従い(偽らずに)今を生きること、学問はその実践を支えるものである、との主人公の姿勢であろうか。幕末明治の時勢や組織(グループ)の空気に絡め取られて威勢良く死に急ごうとする教え子たちに対し、彼らの思想を頭から否定することはしない。武士道のもといつ訪れるか分からない死を常に覚悟するとしても、勢い余った死を決して潔いものとせず、むしろ死を沈着冷静に直視するからこその、今を確かに生きる大切さを後ろ姿で諭す姿が立ち昇ってきた。

 同時に、人間としての深い情がその思想の根底にあることが示唆される。決して学問の理屈だけで教条的に行動するのではない。ましてや利害などで判断するのでもない。西南戦争で死んだ教え子が愛した女郎の信念と情を尊び助け共に歩もうとする思い、武士道や儒学と矛盾しないものとして、人間を人間として尊重する思想と輻輳しつつ深い情感が弟子たちに影響していくさまが表現される。いまの功利的で効率重視の潮流に浸りきった現代の我々が、当時の彼女たちの心根を我がこととして理解することは難しいのかもしれない。それをぐっと私たちに近づけ触れさせようとする仕掛けが、上記の演出や音楽であったろう。

 今回、少々新鮮な驚きだったのが演出を多田が務めたことだ。以前から北九州芸術劇場などと縁を深めていたことは承知していたが、福岡の小劇場の滞在制作企画に応じて刺激を感じさせてくれる作品に仕上げた。生田晃二の脚本とともに作品の奥行きに広がりを持たせたと思う。出演は中嶋さと、ソフィア、安村駿ら。(臼山誠)

「一億円卓」

「一億円卓」(座LILEON座) 7月8~12日、福岡市・ぽんプラザホール

 

 人間の欲望の醜悪さをコメディーのうちに潜ませ、わかりやすいかたちで露わにする。つつましく支え合い比較的穏やかな暮らしを営んできた9人の大家族の物語である。ひょんなことから1億円の当選宝くじが家の中に舞い込んできて以降、それまで本人たちも気づかぬまま心の底で眠っていた強欲が露骨なかたちで前面に出てくる。1億円の配分を巡って修復不可能なまでにいがみ合い、家族の絆が損なわれるあわやそのとき、亡き母の霊が出てきて「デウス・エクス・マキナ」よろしく一家の平和を回復させようとする。と思いきや、1億円を独り占めしようとする人間の邪心が、その「神の采配」をもコケにして終幕を迎える。現実でも、一度欲望に取りつかれてしまった平凡な人間が、もとのつましい心持ちへ戻るのは難しいことなのだろうか。

 金への強欲が人間性を醜く傾け、他者との関係を壊すという古典的な視点を本作も継承する。だが考えてみれば、ここ数十年で市民社会の金銭欲に対する見方は恐ろしく大きく変化しているように思う。金をいかにもうけるか、他者を出し抜いてでも自己の経済的利益を拡大しようとする動機と実際の行為は、一概に軽蔑されるものではなくなっている。ひと昔前まで尊かったはずの清貧や道義や義理人情、勤労などの諸価値の影が薄くなり、金銭的価値がそれらの価値を凌駕してしまう時代である。その暴走の歯止めとなるのはいまや刑事罰を伴う法規くらいしかないのかもしれない。この論理に従えば、法律に触れさえしなければ何でもありだし、もっと言えばたとえ法規や契約に抵触してもばれなければいいとの心理が働く。芝居の最後に家族全員をだまして1億円を独り占めすることに成功した(ように思われる)父親を、うまくやってのけたと評価する人もいるかもしれない。ブラックな笑いがあふれたこの芝居の登場人物たちの描写は、終幕碁も我々の心のうちを刺激しざわざわと落ち着かせない。

 一家の大黒柱然とした振る舞いで威厳を保とうとする父親、そんな昭和を引きずった感の強い父親を軽くあしらう6人姉妹、姉妹たちのとまらぬ会話と恋人らとの恋愛事情、マスオさん的な立ち位置でうっくつしている婿養子、突如闖入する強盗…。いろんな要素が散りばめられストーリーが動き続けて観客を物語にけん引する。なかでも、拾った捨て犬を人間の姿のままで演じる演出が面白く、ギスギスしがちな家族の空気を柔らかくしていたのが印象深い。

 出演は山田だびんち、三好美優、宮本亜里沙ら。作・演出は金田昇大。(臼山誠)

「笑われガスター」

「笑われガスター」(劇団風三等星) 6月19~21日、福岡市・ぽんプラザホール

 

 大変楽しく笑いに満ちた芝居である。その中で終盤、空気を一変させ、主人公ガスターが直面する絶望をいかに際立たせるかが作品の印象を左右する。顔を両手で覆い身じろぎできないさまで絶望を演じる主人公。彼の心の内のあまりにも深い絶望は観客に十分伝わってきたのではないか。

 以下の記述は観客の一人として欲張りすぎだろう。幸福をつかむかに見えたガスターを突如襲う絶望の深淵が、主人公の体のうちから、その肉体と演技から、その不動や動きや表情から立ちのぼり、客席にいる我々の心がえぐられ揺り動かされる体験は可能だっただろうか。可能だとしたらそこにこの戯曲と芝居の真骨頂を感じとれるかもしれない、などと思ったのである。

 全国で演じられている大矢場智之の人気戯曲だ。何かを語るはしから「健常者」にとって面白おかしい話術に変換され、望みもしないのに周囲を笑いの渦に巻き込んでしまう。そんな奇病を患う主人公は、意に反してコメディアンとして生きることになり、芸人として成功するものの、苦悩と屈託を抱えながら日々を送る。それでも自身と世の中の平穏を願いまじめに生きるうちにある時曙光が差す。同じ持病を持つがため彼を笑わない女性に出会うのだ。ようやく心穏やかに過ごせるときを持てるようになった、舞台の空気が柔らかくなったその時だ。

 静けさの中に突如彼女のけたたましい笑い声が響き渡る。ガスターのしゃべりを聞いて大笑いするのは病気が治った証しで本来は喜ばしい事態なのだが、主人公にとっては悪魔か狂気のようなぞっとする響きを持つのである。芽生えた人生の希望が消滅し、心のうちに広がる底知れぬ闇と絶望。演出と演技の妙によって、客席の我々もその笑い声に恐ろしげな響きを感じてたじろぐ。この時点まで、童話風の世界観のなかで、劇団の持ち味を生かしたテンションの高いコメディーが分厚く続いてきた。一人ひとりの役者たちの熱苦しいほどの喜劇的演技の蓄積によって、絶望へ落ちる落差を極大化させる。その隔絶をより深く表現する効果を持たせる。

 芝居の随所に印象深いシーンも散りばめられる。例えば戦場の場面では主人公が笑いを巻き起こすことで戦闘を停止させる。笑いの前には貴賤など関係なくみな平等なのであり、貴族と平民の対立も、敵対する国同士の指揮官や兵士の敵愾心も霧散する。等しくみなが爆笑する姿が象徴するのは、人類の普遍的な共通感覚を土台にし、争いのもとである我欲を超越した心のゆとりの共有とでも言うものなのかもしれない。

 上演の105分間が瞬く間に過ぎた。示唆に富んで思索を促す側面を持ちつつ、理屈抜きに楽しませてくれる娯楽コメディーでもある。どのように味わうかは観客一人ひとりの受け取り方次第だろう。朴訥な主人公を井上雄介が好演。ほかに前田まりあ、梶川竜也らが出演。演出は広瀬健太郎。(臼山誠)