「誰が殺したペッコロタンゼ」

「誰が殺したペッコロタンゼ」(飛ぶ劇場) 10月23~25日、J:COM北九州芸術劇場

 ラスト近くで桑島寿彦演じる菓子店店主が毒入り飴玉を配り、自身を含め食べた者たちがみな死んでしまう。一見救いのないこのシーンに考えさせられた。戦争が絶えない世界の現状をみた作者がその根幹にあると考える、人間の本性への疑念が顕れた作品とみていいだろうか。人間は本性的に争いを止められない生き物なのではないか。ならば本当の平和を実現するためには、争いに転化しかねない怒りと憎しみの情動のエネルギーを抱えた人間をすべて排除してしまうしかないのではないか。作・演出の泊篤志は観客を含む自他に対してあえてこの逆説的な問題提起を行い、いまを生きる一個の人間として自身の姿を見つめ考えることを深く促すのである。

 芝居で描かれたのは川を挟んで隣り合う二つの地域住民たちのいがみ合いである。中間に位置する中州の公園で遺体が発見される。ミステリー要素をはらみつつ、過去の殺人事件の応酬で膨らんだ両地域住民の憎しみの連鎖が表現される。和解が成立し、頭の中では近隣同士融和して生活していかねばならぬことは分かっている。しかし、ふとした拍子に心のうちから憎悪が沸き起こるのである。A町、B町という町内会程度のコミュニティーの住人たちの設定になっているが、現代世界の不穏な状況に想像が飛ぶのは容易だ。平和維持のために設けられたどちらにも属さない緩衝地帯、土地と歴史への執着から離れられない住民、同じ町民(つまり同胞)が惨殺された記憶と伝承を強烈に保持し続ける心情、平和実現と言いつつ対立勢力の弱体化と征服を図る者……。

 見えてくるのは、言うまでもなく古今の国際社会の様相である。なぜ人間社会から戦争はなくならないのか。数十年前どころか数千年前と変わらず人間は、自分本位の正義や宗教的正しさを大義名分とし、自分たちの安全や利権の獲得、保持などのため懲りることなく他者の殺戮と戦争を繰り返している。その傍らで人類の叡知が延々と築こうとしてきた永遠平和は夢幻に過ぎないのか。

 劇場で配布された文書に泊はこう書く。<自分が若い頃、「21世紀こそ争いの無い世界になるのではないか」と、明るい未来を信じているところがあったんですけど、気が付けば今、世界大戦一歩前みたいな状況に>なってしまっている。同世代の私もほぼ同じ思いを抱く。私たちが青少年期を送った20世紀後半の日本では、人間の思想と科学の進歩、国際政治における法と対話と武力抑制などによって平和な世界を将来達成できるのではないかという漠然とした希望と期待が多くの人に共有されていたように思う。しかし我々はその後到達した現代において、数千年来変わらない暴力の応酬、「力による正義」の公然とした復活、科学の発展の末に現れたAIの暴走の顕在化におののき、その現実のただ中にいることに改めて気づかされ慄然とするのである。

 人間性への信頼の揺らぎと疑義の思索の奔流がこの芝居にある。社会や世界を構成する国や民族や集団がそれぞれ描く主観的な正義と利益は衝突し、争いの火種はなくならない。一つの集団の成功はしばしば他の勢力に負(身体的・経済的ダメージなど)をもたらすものであり、自分たちにはね返る怒り、悲しみ、憎しみを生じさせ、それが互いに繰り返される。旧約聖書の時代以来繰り返されるパレスチナの事例を見るまでもなく、臥薪嘗胆の故事を思い出すまでもなく、現代の反米欧テロリストの跋扈を見るまでもなく、日本と周辺国との関係やそれよりももっと日常の卑近なところにも事の大小を問わず確認できるのではないか。

 憎しみの連鎖を断ち切るために、古来、様々な思想や宗教、政治形態・法制度、国際的枠組みなどが模索されてきた。人間性に信頼を置いたそれらの努力は一定の役割を果たしてきたことは確かだが、それにもかかわらず私たちは人間の暴力の応酬がなくなる未来を数十年前の日本人のようには気楽に描けなくなった。この芝居には、人間の争いの衝動の根幹にある何ものかを把捉しよう、との意識がこもる。理性で制御することが難しい部分に人間の本性の核心があるのではないか。その核心部分にある、怒りや悲しみ、憎しみの情動のうねり、エネルギーを完全にコントロールすることは不可能なのではないか。つまり、人間とは永遠に平和を築くことができない生きものなのではないか。その疑問は人間性に信頼を置くことへの揺らぎである。冒頭に記した終盤のシーンはこの諦観を表徴するものではなかったか。

 制作陣も演者も観客もその描写は現実に取りえない選択枝であることは百も承知である。その上で人間にとって救いのある未来を想像しうるためにはどうすれば良いのか。我々に自分たちの現実を真正面から見つめること、自他の関係性のありようを自覚すること、人間性への信頼を吟味し再構築を試みること、そして地に足着けて再び深く思索することを促すのである。

 劇団は来年創立40周年だそうだ。桑島のほか木村健二、葉山太司、寺田剛史、内山ナオミら長年劇団を担ってきたベテランたちの深みのある演技が印象に残る。(臼山誠)

「誘拐されちゃったかもしれない」

「誘拐されちゃったかもしれない」(万能グローブガラパゴスダイナモス) 10月2~4日、福岡市・ぽんプラザホール。

 爆笑の連続により物語の中に引き込まれた観客は、終盤浮上するシリアスな問題と対峙することになる。出だしの全員が記憶を失った状態から、ベールがはがれるように徐々に記憶を回復し全体像が明らかになっていく構図はガラパらしく面白い。単純に楽しめる作品でもあるし受け止め方はそれぞれだろう。中には、「自由」とは何か、重い宿題を課された心持ちで劇場を出ることになった人もいるかもしれない。コメディを堪能しつつ思索することを促される一面を持つ作品である。

 描かれているのは、将来に展望を見出せない者たちの迷走である。いい加減な記事を書いて食いつなぐやさぐれたフリージャーナリスト。本当の自分はこんなものじゃないと自らに言い聞かせながら…。来る日も来る日も生意気な中学生の相手をする好きでもない教職にうんざりしている教師。パチンコにのめり込み借金に苦しみながら…。裕福な家庭だが父親から束縛される毎日から解き放たれたい女子生徒。恋人と駆け落ちすることを夢見ながら…。

 彼らは本来あるべき自分の姿を見つけることを阻む足かせからの解放と自由を求め、その先にある充実した生への道を開きたいと思っている。生活費を稼ぐためのあくせくした労働や家族であるがゆえの束縛からの自由、自由を勝ち得た先にある自己実現を願う悲哀が漂う。要は金だ。生きていくのに十分な金が手に入れば、本当の自分を生きるための選択ができるのだ。そのための原資を獲得するために、ばらばらの思惑の者たちが集って誘拐計画を実行する。敵か味方か、だましだまされる駆け引きがドタバタ劇の駆動力となり、クライマックスに向かってテンションが上昇し物語が加速していく。大変楽しいワンシチュエーションコメディーに仕上がっている。

 しかし、ここで考えさせられるのだ。彼らは本当に「自由」ではないのだろうか。「自己実現」や「自分探し」に駆り立てられ、「自己責任」と切り捨てられ、「自助」を要求される世界に彼らも我々も共に生きていないか。新自由主義が伸張してきた数十年以上の年月の中で親族や共同体などの庇護集団は煩わしいものとして排除される一方、「自由」に付随するものとして個人の責任や覚悟を、能力や性格や環境にかかわらず強いられていないか。それを「自由」と呼ぶのならば、芝居の中の誘拐犯たちは自分を頼りにするしかない「自由」な社会に容赦なく放り込まれ、結果として競争に勝てなかった果ての姿ではないのか。

 (彼らが望んだような、生活の必要や因習、血縁や権力の抑圧などから解放されたうえで)自我を確立した個人たちが共に生きる自由と、現代の我々が直面している(伝統的な指標が力を失い市場価値重視の優勝劣敗が前提とされる社会で一人一人が個別に生きなければならない)「自由」とは根本的なところで質が異なるように思う。気になったのは、ハイテンションな周囲から浮いた異物のような、もやっとした男(西山明宏)が造形されていることだ。新興宗教にどっぷりつかった姉の呪縛の中でもがく男である。宗教と家族という2つの呪縛から解き放たれたいという気持ちを抱える一方、心のうちにもやもやとしたものがよどんでいるようなのだ。「自由」を勝ち得たとしてその先にある漠然としたものに、はっきり表現できないが近寄りたくない何かを感じているらしい。

 ラストシーンの暗転の中、閃光とともにピストル音がする。男が撃ったのは誘拐一味か、束縛する姉か、家族になってしまうかもしれない恋人か、あるいは自死だったのか。男は「自由」を求めつつもその「自由」に対して逡巡している。解放された現代人が容赦なく放り込まれるのは後者の「自由」社会であり、孤独、不安や恐怖、よるべのなさ、行き着く先には絶望すらあるのではないか。そして「自由」を放棄して権力や宗教に没入する安寧を求める矛盾。

 考えすぎなのかもしれないが、ここまで来て『自由からの逃走』を連想してしまう。言うまでもないが、ナチスへ傾倒するドイツ国民を考察した書だ。件のもやっとした男は、作・演出の川口大樹(出演も)が抱く現代社会への違和の具現化なのかもしれない。いまの社会の空気に何かを敏感に感じとっているのかもしれない。多くの人々が市場主義や国家の論理や宗教やSNS情報といったものに身を委ね、一個の人間としての自我と思索を放棄してしまっているように見えなくもないいま、人間の知性を凌駕するAIの脅威が現実のものとなりつつある。

 自由の概念を現代人はどこかで取り違えていないか。人間社会における自由の意味と意義を吟味しなおすべきではないか。「自由」という言葉で安易に語ることに慎重であるべきではないか。そんな警鐘と危機感をこの劇から感じてしまったのである。

 横山祐香里、石井実可子らがテンションの高低を使い分け好演。出演者みながいい味を出していた。(臼山誠)

「コスモス揺れて、嘘ひとつ」

「コスモス揺れて、嘘ひとつ」(劇団HallBrothers) 9月18~20日、福岡市・ぽんプラザホール。

 

 心にしっくり落ち着く結末だった。劇場で配布された作・演出幸田真洋のあいさつ文に「人は物語なしでは生きられないと思っています」とある。確かにそうなのだろう。そして物語の中に自分のかたちに合う、自分がすっぽりはまる居場所があることが生を充実させるのではないかと思う。芝居では当初、東京発の競争社会の価値観に縛られた借り物のような物語をありがたがって田舎に移入・創造しようとするが、結局破綻する。そして土地の歴史や風土、住民の生活と心に基づく地に足がついた物語の再確認が必要であることへの気づきで終える。

 過疎の町を舞台に町おこしで観光に力を入れる住民たちの会話劇だ。私欲、過去への囚われ、失敗からの逃避、金銭的利益、個人の夢の実現、などさまざまな思いを抱えた人たちが、コスモス街道の整備と観光客を増やすことで経済的恩恵や自身のPRにつなげようとする。町おこしの目標に折り合える間は、自己の思いをオブラートに包んで協力し合う。しかし、活動にほころびが見えた途端、個々の人間のエゴが露わになり、空中分解へ向かいそうになる。

 HallBrothersが得意とする芝居展開であろう。町おこしという目標が経済的成功などの文脈で変換され、そのためにあくせく動き回り、本来の日常から乖離していくいびつな群像が描かれる。集客のために無理や背伸びをし、大げさで嘘まがいのPR表現すら用いそうになる。市場経済的価値観をベースに置いた同床異夢のWinWinの関係に基づく表面的妥協が、いかにもろいものか…。人間関係の基層に契約的思考が置かれるのが当たり前のようないまの社会への強い違和が本作から伝わってくる。終盤、観光資源としてクローズアップしてきたコスモスが台風でほぼ壊滅する。しかし、台風一過、つきものが落ちたように住民たちが我欲や我執から解放されて穏やかに語り合い協力していく姿の萌芽に、ほっとする空気が劇場内に生まれた。登場人物たちそれぞれの心情と身丈にあった居場所を見出せる地域の物語を紡いでいくであろう予感が余韻として残る。

 全編を通じて浮かんできたのは次のような主題だ。東京を中心に形成されてきた画一的ものさしで地域の物語を人工的につくるのではなく、合理性や効率性などという概念を無批判に我々の生活に落とし込むのでもなく、当該の土地や集団で生きていく住民の幸福や誇りとは何かを見つめなおし、置き忘れてしまっているかもしれない自分たちの視点で語りうる物語を再確認することから歩を進めるべきではないか――。私たちが保ち続けるべき大切なものがそこにはあるに違いない。

 現実を省みて、職場でもいいし、地域コミュニティーでもいい。家族でもいいし、趣味のグループでもいい。それらの人間の集まりが育む物語の中のどこか一つに、疎外を感じない自身の居場所があることはどの個人にとってもきっと大事なことなのだろう。観劇後、その思いをかみしめている。劇団と幸田の表現の熟度が深まっているように感じる佳作である。出演は唐島経祐、佐藤茉優希、萩原あやら。(臼山誠)

「ちょっと待ってください!」

「ちょっと待ってください!」(劇団池田商会) 9月4~6日、福岡市・ぽんプラザホール

 もしもミステリー小説に出てくる架空の人物が自我を持ってしまったら――。ユニークな設定が面白かった。いざ生身の自分が小説や映画などミステリーフィクションの世界に実在すると想像してみると、周囲で起きる出来事などで不自然に感じることどもが思いのほか多いかもしれない。

 この設定を土台にすれば物語をいろいろな方向へ運んで行けるだろう。本作は大きな視野で捉えると、商業主義(資本主義)が過度に浸潤する現代社会への違和をふつふつ感じさせる方向へ向かっていった。

 主人公は、現職総理が実は名探偵だという奇抜な推理小説シリーズの主要キャラクターである。この小説の作者は全体像を固めてから執筆に着手するのではなく、執筆をしながら推理を働かせ犯人にたどりつくタイプだそうだ。おそらく当該小説では序盤から中盤にかけてさまざまな伏線らしきものが描かれるが、ある時点=作者が犯人を特定した時点から、それまでの描写が犯人の行動や動機、トリックに結びつくように回収されていくのだろう。強引かつストーリーに都合良く…。

 フィクションの世界をリアルな現実として生きるキャラクターを措定すると、彼らにとってはたまったものではないこともあるだろう。小説家の筆如何によって翻弄される悲哀、ストーリーが成立するのと引き替えに起こる不条理への割り切れなさを想像してしまう。主人公は憤然として、シリーズ全般に「雑な推理」や「ワンパターンの展開」が満ちており、このシリーズはただひたすら消費されているだけだと言い放つ。そして作者の心が投影されている登場人物がいるに違いないとして「作者捜し」の謎解きを始める。なかなか興味深い展開だった。

 印象に残ったのは、作者=小説内の架空社会を絶対的に支配する神のごとき存在=が現実の世界でうっくつを抱えているさまを描いた終盤のシーンである。自作を刊行するためには編集者の指示に従わざるを得ず、本当に書きたい展開や物語を書くことが認められない。編集者の関心事は、広く売れてお金になる作品をいかに書かせるか、である。娯楽作品といえども文学性やミステリーの魅力を小説家とともに深く掘り下げる姿勢は希薄である。前記の主人公が嘆いた「雑な推理」等の元凶は、ここでは、編集者が従順な資本主義、商業主義の論理ということになる。

 ところどころでかつてのテレビドラマ「火曜サスペンス劇場」の場面を連想させるなど、作・演出の瀧本雄壱の射程は小説のみにとどまらないだろう。過去、芸術芸能が商業的に消費されてきた側面は否めない。しかし、現代日本では経済の論理があらゆる分野で臆面もなく前面に出てきており、芸術芸能の価値も商業価値に安易に類比され、諸々の作品は消費社会の一商品とみなされる傾向が過剰になっていないだろうか。経済とは異なる次元で人間その他のありようを問う何かが芸術芸能に確かにあることは決して否定され得ない。であるのに資本主義的価値観の中にその別種の価値が埋没してしまう状況下に我々はいるのではないか。観劇しながらそんな制作者たちの思いが舞台上ににじみ出ているように感じられた。出演は久保大輔、松本裕子ら。(臼山誠)

「羨望」

「羨望」(劇団テンクウ) 8月21~23日、福岡市・ぽんプラザホール

 

 役者たちの演技と、生演奏、映像の重ね合わせがこの芝居を特徴づけた。ある時は重く、ある時は静かに流れる電子ピアノの音色、登場人物の視点で投影される夜道の光景など、とくに心象風景を増幅させる効果によって小劇場の空気を波打たせ、物語の起伏を大きくする。終始舞台の上で演奏を続けた武下詩菜によるラストの歌唱シーンが印象深い。物語の果てに登場人物がようやく掴み得ることができた救いと人間の温かさが集約された歌声が、体にしみこんでくるような感覚にとらわれた。

 歌手やシンガーソングライターを志す若い女性たちが働くミュージックバー。芝居が進むにつれ温和な紳士然とした常連客である音楽プロデューサーの悪辣な素顔が暴かれていく。変貌していく彼の言動や、デビューの希望をカタにとられ度重なる性暴力によって心が壊れていく女性たちのさま、プロデューサーの支配する小世界の内側から逃れることができず絶望の淵へ追い込まれる姿などが芝居のひだとなって折り重なり物語の密度を濃くしていく。プロデューサーに対するクライマックスの闘争で、それまで舞台に構築されていた救いのない堅牢な囲いを破ろうと衝突していく情愛と理性のエネルギーが熱量を帯びて客席に伝わってきた。

 その最中、開き直ったプロデューサーが言い放った理屈に、客席にいながら一瞬たじろいでしまった。以下のような趣旨の主張である。

①     音楽の才能があっても、力量のある他者に評価されプロデュースされなければ開花しない。

②     人生の道程で大きな苦しみや深い悲しみを経験した者ほど、その表現は深くなり味わいを増す。

③     だから敏腕プロデューサーである自分がデビュー間近の女性の心身に苦しみを与えているのは、彼女たちの音楽表現の幅を広げ芸能の世界で成功に導くことにつながる。役者を精神的に追い込むことで深い表現を創作したと肯定的に評価される演出家たちとやっていることは変わらない(つまり蜷川幸雄やつかこうへいらのことか)

 

劇中の主人公はこの極端な自己正当化の論理をかわし、歌唱や作曲など才能豊かな女性たちに対する芸術的才能のないプロデューサーの羨望が身勝手な言動の根底にあると反論。感情の問題の次元から追及する。

おそらくその通りなのだろうが、一つ考えさせられたことがある。論外ではあるが一見理屈が通っているようにも聞こえてしまうプロデューサーの論理を、同じ地平に立って論理的に打ち破っていくストーリーもあり得たかもしれないということだ。上記①②は確かにそういう側面はあろう。しかし、③に関していえば、プロデューサーの言動は、深い芸術的表現の糧になるのとは真逆で、目の前にある才能と人格を破壊しているのである。そこではもはや音楽への愛や芸術的探求心など欠落しており、音楽の可能性を自身の欲望の手段へと貶め、その手段にそぐわないと見なすや豊穣な可能性をごみのように捨てて恥じない。音楽と人格への冒涜と化している、のではないか。

それはそれとして、芝居はそんな七面倒くさい理屈など超えたところから観客を結末へ向かってぐいぐい引っ張っていく。プロデューサーとの対決は物理的な暴力の応酬となり、殴り合いや肉体のぶつかり合いの演技・演出が、偏狭な権力にがんじがらめにされている現状を打破する熱量となって表現される。他者のための手段だと決してかたづけてはならない、一個の人間の尊厳を回復するために突き進むエネルギーの昇華がラストの歌唱につながり、観客は密度の濃い空気に中に身を置いているような心地で終幕を迎えるのだ。今もまだその余韻を味わっている。作・演出は髙村剛志。出演は外埼詩織、心乃音、大迫旭洋ら。(臼山誠)

「台風0号」

「台風0号」(PandA) 8月6~9日、福岡市・甘棠館Shou劇場

 

 台風の日、公民館であろうか、小規模の避難所に身を寄せた数人の心模様を描く。非日常のひと時をともに過ごし互いに語らう中で、それぞれが屈託を抱え人生の岐路に立っていることが明らかになる。親の介護であったり、離婚であったり、ギャンブル依存と借金であったり、個人商店の経営難であったり……。そして苦しい現実から目を背け問題を先送りしている。我々は多かれ少なかれ何らかの問題を抱えて市井の日常に生きる。逃げてしまいたくなる現実の縮図がこの舞台の俎上に載せられている。

 激しい風雨のため一定時間屋内にいるしかない、ある意味運命共同体的な密室空間の中。徐々に親近感が生まれ踏み込んで語り合う。そこでは他者の心の弱さと現実逃避が何の解決にもならないことが見えてくる。自身のありようへフィードバックされることで、直面している問題と対峙する自覚が生まれ、同時に他者を思いやる心も深くなってくる。そのうえで個々が今を乗り越えていく姿に、観劇している私たちも勇気づけられるのである。現実の私たちの心が登場人物たちのような動きをするわけではないかもしれない。しかし、人間の弱さ、その性(さが)を優しく見つめ、背中を支えてくれるような空気感を醸し出す作品に仕上がっていた。

 芝居が進むうちにストーリーの主軸として浮かび上がってくるのが、かつて自身の自由と引き換えに幼い我が子を捨てた母親と、社会人に成長した今なお母親の面影を追う息子の微妙な心情の揺れである。台風がキーワードになり、避難所の人たちによる絡みが物語に推進力と凹凸を生む。悲劇的あるいは狂気を想起させる終幕へと展開することも可能だっただろうが、本作は生き別れになった母子の再会によるハッピーエンドを連想させるラストシーンを導いた。大切な人や物事と真摯に向き合い他者の幸福を求めつつ誠実に生きていくことで自らの生も豊かになる。そんな人間のありようを志向する表現の姿勢が伝わってきた。

 現在(正確には1年前だが)と過去(20数年前)の話題が脈絡不明のまま交互に進行し、徐々に交差の度合いを高めながら、最後に一つの事実に収れんする構成が面白い。終盤、子を捨てた悔恨を抱えて年齢を重ねた現在の自分(渡辺一心)と、一人で子を産む覚悟を決めた過去の若き自分(八坂桜子)の心が舞台上で重なり合い一つになる幻想的なシーンが印象的だ。

 自由とは何か、家族とは、その他、情や幸福、ジェンダーなどさまざまに考えさせる要素が芝居を通じてはらまれており、受け止め方は観客それぞれの心のありようによるだろう。舞台を四方から取り囲むかたちで客席を配置した効果もあっただろうか、物語を全体から俯瞰するような心持ちで観劇した。

 寺田剛史、椎木樹人、大谷豪ら福岡・北九州の実力俳優らが共演。味わいが深く余韻をたなびかせる作品である。脚本・演出は高梨由。(臼山誠)

「藍あやめ 紅つばき」

「藍あやめ 紅つばき~高場乱、その教え~」(甘棠館Show劇場プロデュース) 7月25~31日、福岡市・甘棠館Show劇場)

 

 幕末・明治の医者で儒学者、男性として育てられ生きた女性、高場乱(おさむ)にスポットを当てた。福岡市唐人町の甘棠館Show劇場プロデュースで、同劇場を拠点にする劇団ショーマンシップが中核を担った。福岡の歴史、人物を芝居化し再評価してきた同劇団だが、演出に東京デスロックの多田淳之介を招き、一段と深みの境地を求めようとする意欲作でもあろう。高場は亀井南冥の学問系譜を継いで私塾を起こし、武部小四郎や頭山満らを薫陶したことで知られるが一般に認知度が高いとは言えない。今作は亀井学門の志を教え子たちにつないだ教育者としての人間像を中心に描こうと試みた興味深い作品だった。

 表現のポイントの一つは、儒学や武士道に規範を置く彼女の思想及び教育の姿勢を掘り起こして咀嚼したうえで、客席の現代日本人が理解し没入できるような物語化、脚本化を行い、それをいかにセリフや演技にのせて体現させるかであっただろう。ラストシーンの主人公の嗚咽、そして暗転。長くも感じられた暗闇の中で、四角四面に生きたわけではない彼女の情の深さの余韻に心を揺らされた。説明的、うんちく的側面が強くなりがちな歴史ものの題材の中で、現代的なポップな演出や音楽的効果を前面に押し出した演出で客席を違和なく過去の精神世界へ触れさせようと試みた工夫が印象的であった。

 要は、黴臭くとらえられかねない彼女たちの思想、行動を現代日本人の立ち位置からどのように共感できるものとして掬い出し客席に肉薄させるかである。大ざっぱすぎるかもしれないが芝居を通じて表現されたのは、自分の志に従い(偽らずに)今を生きること、学問はその実践を支えるものである、との主人公の姿勢であろうか。幕末明治の時勢や組織(グループ)の空気に絡め取られて威勢良く死に急ごうとする教え子たちに対し、彼らの思想を頭から否定することはしない。武士道のもといつ訪れるか分からない死を常に覚悟するとしても、勢い余った死を決して潔いものとせず、むしろ死を沈着冷静に直視するからこその、今を確かに生きる大切さを後ろ姿で諭す姿が立ち昇ってきた。

 同時に、人間としての深い情がその思想の根底にあることが示唆される。決して学問の理屈だけで教条的に行動するのではない。ましてや利害などで判断するのでもない。西南戦争で死んだ教え子が愛した女郎の信念と情を尊び助け共に歩もうとする思い、武士道や儒学と矛盾しないものとして、人間を人間として尊重する思想と輻輳しつつ深い情感が弟子たちに影響していくさまが表現される。いまの功利的で効率重視の潮流に浸りきった現代の我々が、当時の彼女たちの心根を我がこととして理解することは難しいのかもしれない。それをぐっと私たちに近づけ触れさせようとする仕掛けが、上記の演出や音楽であったろう。

 今回、少々新鮮な驚きだったのが演出を多田が務めたことだ。以前から北九州芸術劇場などと縁を深めていたことは承知していたが、福岡の小劇場の滞在制作企画に応じて刺激を感じさせてくれる作品に仕上げた。生田晃二の脚本とともに作品の奥行きに広がりを持たせたと思う。出演は中嶋さと、ソフィア、安村駿ら。(臼山誠)