「漫豪ストレートMAX」

「漫豪ストレートMAX」(劇団ジグザグバイト) 4月20~24日、福岡市・ぽんプラザホール

 

 エネルギッシュな舞台だった。役者たちの肉体の限界近くまで激しい演技を追求し、その熱量が劇場空間を満たし観客を熱気にくるんでしまう。ある意味、つかこうへいの作風を思い起こさせるが、つかが俳優を心理的にも追い込んで素の人間性をさらけださせた上で個々の役者の人間性、身体性が発する強靭な表現を生み出し演劇のエネルギーを沸騰、伝播させていったのに対して、本作はリアリティーのなさを全面に出しているからこそ客席も違和なく受容できる徹底したバカバカしいストーリーと尋常ではない激しい演技の連続で観る者を圧倒して物語世界へ包み込み、熱量を共有させようとする表現への志向、と言ってもよかろうか。俳優たちも原案・演出の到生の要求によく応えているように見える。

 物語の構造は昨年10月に観劇した「シン青春ピンチヒッター~激闘生徒会編~」とあまり変わらない。仲間が協力して身に降りかかる苦難やヒール集団との戦いを乗り越え、邪悪なラスボスとの死闘を制し平和を取り戻す。今回の特徴は、往年の大漫画家と彼らが創造したキャラクターが混在する設定だ。手塚治虫永井豪鳥山明藤子不二雄赤塚不二夫、ジョージ 秋山らをパロディー化した者たちと、アトム、デビルマン、悟空にブルマ、オバQバカボンパパ、銭ゲバらをパロディー化した者たちが入り乱れ大騒ぎと乱闘を展開する。どちらかと言えば50~60歳代の心をくすぐる漫画やアニメのオンパレードで、年配の観客も少なくなかった。アクションシーンが多く練度の高い殺陣は確かに見ごたえがある。

 「漫豪」をネットで検索すると実際に使われている事例も少なからずある。どこまで一般に流布されているのかはわからないが、小説家の文豪に対して大漫画家を評する言葉として用いられている。また、本作の舞台だとして作品中で明示されるのが福岡市の親不孝通り周辺であり、さらに、福岡県一帯で一時暴力事件が多かったことから揶揄して使われた「修羅の国」の呼称を使うなど自虐的視点の地元色を盛り込んだ展開も面白い。

 演劇でいかに劇場全体を覆うほどの熱量を生み出すか。本作のありようは熟考と試行錯誤の末にたどり着いている現在地とみていいのだろうか。一観客としてはただ楽しめばよいのではあるのだが、劇団として今後どのような舞台表現を展開していくのか興味深く思う。出演は主役的立ち位置の八坂桜子はじめ高橋力也、小沢健次、高瀬龍之介ら。脚本はテシマケント。(臼山誠)

「新生!熱血ブラバン少女。」

「新生!熱血ブラバン少女。」(博多座) 4月6~21日、福岡市・博多座

 

 物語が音楽に溶け込み、物語と音楽が融合して一体化しつつ展開する。そんな演劇を体感した末に受け止める、ラストの迫力ある高校吹奏楽部の演奏からは、物語に蓄積された女子高生たちの苦しみや喜び、活動を導き支えた大人たちの葛藤があふれ出てくる。劇場空間に満ちた音楽に宿る物語のうねりに心を揺さぶられた。

 この演劇展開の導線として登場したのは、ある事情で言葉を話せなくなったフルート担当の吹奏楽部員(神田朝香)だった。言葉の代わりにフルートで奏でるメロディーで思いを表現し、他の部員たちはそのメロディーを受け止めて彼女の気持ちや、伝えたいことを理解するようになる。音楽が言葉となり、物語に溶け込んでいく素地となる。終盤にはセリフの抑揚が音楽的になるミュージカル風の演出も現れ、クライマックスのブラスバンド演奏へ期待と熱量が高まっていく。登場人物たちの心の交錯が綴られる音楽物語に客席の我々も包み込まれ、心がわくわくし高揚していく。

 ストーリー自体はよくある学園青春ものだ。全国大会の常連だった吹奏楽部が今ではレベルが落ちて休眠状態。部員たちの心はバラバラになっている。そこにブラバンへの情熱いっぱいの1年生(鈴木梨央)が入学し、彼女の熱意が他の部員や周囲の大人たちに伝播し、それぞれが突き当たる試練を乗り越えていく。やがて部員たちがチームワークを取り戻して大会へ向けて邁進する姿が描かれる。主人公の同部コーチ(博多華丸)と部員たちの交流がストーリーの主軸なのだが、部員個々や大人たちそれぞれの過去や苦渋もちりばめられ程よい群像劇となっている。

 俳優たちの演技もさることながら、本作が一段と強い訴求力を持つ演劇に仕上がっているのは、上記の通り物語と音楽の融合の力であることは間違いないだろう。さらには実際に舞台のうえで演奏・演技する高校生たちが、地元福岡の人々が誇りに感じている吹奏楽の名門、精華女子高吹奏楽部の部員たちであること、方言をはじめ福岡の要素をふんだんに盛り込んだことが地元の観客の心をリアリティーをもって高ぶらせることになっただろう。

 博多座が開場25周年記念作品として、同じく華丸主演で同校吹奏楽部員たちが出演・演奏した「熱血!ブラバン少女。」から7年ぶりに制作した新作。今月26~28日には大阪市新歌舞伎座でも上演される。福岡に限らずローカル発の作品が他地域へ発信されるのは小劇場演劇の世界では20年ほど前から盛んに行われるようになり地方劇団の全国巡演も現在では既に珍しくない。客層が重なりつつも異なる商業演劇で且つ福岡色の濃い本作が大阪の観客にどのように受け止められるのか大変興味深く思う。

 脚本はG2で、加納幸和花組芝居)が演出。出演は他に紅ゆずる、星野真里宇梶剛士浅野ゆう子森保まどから。(臼山誠)

「三途の川のクチコミ」

「三途の川のクチコミ」(万能グローブガラパゴスダイナモス) 3月13~17日 福岡市・市美術館ミュージアムホール

 

 スマホSNSなど便利で効率的な物や情報があふれている現代社会は、実は本来の人間にとっては異様な社会なのではないか、との疑問を提示する。そのため芝居の舞台を三途の川や地獄で働く鬼たちの社会に設定したところに、作・演出である川口大樹のクールさを感じる。笑いどころが随所にあるコメディーであることは従来通りであるが、物語の構築に一味違う感のあるガラパ作品を味わえた。面白かった。

 古来の純朴さと恐ろしさで地獄へ落ちた人間たちを痛めつける鬼たちの社会に、もしも人間たちが現代社会の文明の機器を浸潤させていったどうなるのか。もともと立派な鬼たるものは、人間にとって恐ろしい存在であることが必須条件であった。しかし、ネット上にあふれかえるクチコミ点数を気にする者たちが増殖し、鬼社会で尊敬されてきた姿勢や態度は過去の遺物とされ、寛大さが求められるようになる。地獄の恐ろしさが緩和され、さらには公平厳密であった閻魔大王すらネット民たちの評価や炎上を恐れて地獄に落ちるべき人間たちをも天国へ送り込むようになってしまう。純朴な鬼たちにとっての穏やかな日常が崩壊し、芝居上鬼たちと密接な関係にあった麗しい天女の世界もすさんでいく。効率や自己利益ばかりを求め続ける愚かな社会に変容していくさまが表現される。

 欲しい物を思い浮かべるとすぐに届けてくれるその名も人間(澤栁省吾)の存在が面白い。一義的には、ネットで注文すると速攻で荷物が届くアマゾンやフリマアプリのメルカリなどを連想させる。だがそれ以上に世界中を侵食し人々を合理化や効率化、功利性重視の精神へ加速度的に変容させている資本主義なるものの擬人化だと捉えても間違いではないように思う。人間が近代に生み出した資本主義の合理性、市場価値重視の信条のもとついには社会を変容し、一人ひとりの人間性を変質させ隷従させていく。その流れの中で現実的にうまく立ち回る人間が評価される社会へとすでになってしまっている。芝居の終盤にあったようにこの「現実」を一度リセットするくらいに対抗できる思想や哲学が必要なのではないか。おそらく川口にはそのような意識が存在する。笑いとともに深い思索にいざなわれる作品だった。

 すっとぼけた役回りの天女(石井実可子)、店の効率化に振り回される料理屋の大将鬼(椎木樹人)らの演技がアクセントになっていた。今月27~31日には東京でも公演する。(臼山誠)

「愛の讃歌」

愛の讃歌」(劇団go to) 3月1,2日 福岡県春日市・市ふれあい文化センター

 

 母から娘へ、またその娘へ、さらにはまたその娘へと受け継がれていく一枚の着物を巡って、4代にわたる3組の母娘の心の行き来を描く二人芝居。貧困から心中を図ろうとした母へのわだかまり、弟ばかりを大切に思っているようにみえる母へのうとましさ、祖母を大切にしないように感じる母へのいらだち……。

 娘の側からの視点ではそのようにみえるのだが、自身が母親になり、老い、認知症の要素が加わっていくうちに観客の視線は母親の立場の視線に移ろい、自分の心が娘に理解してもらえない母親のやるせなさと、心の底では強い母娘愛でつながっているさまが強く伝わってくる。

 6年前に観劇した公演(福岡市・あじびホール)とはステージの大きさの違いもあり、脚本や演出はある程度かわっているのかもしれない。しかし、女性同士である母娘の心の動き、葛藤、愛情というものをしっとり表現する作・演出の後藤香の生み出す舞台世界は変わらず強靭であり、木内里美と後藤の息の合った熟練の演技が観る者を引き付ける。

 昭和の戦後まもなくから令和の現代までオムニバスのように時間が行き来する構成。いつの間にか役柄が変化している演出、複数の役柄を即座に演じ分ける演技、コメディータッチの場面などもあるが、木内と後藤がそれぞれ舞台上で実際に一人で着物の着付をするクライマックスにはとくに魅入った。土曜夕の回を観劇したが、惜しむらくは客席に空席が目立ったこと。多くの人に観てほしい佳作である。(臼山誠)

「鮭なら死んでるひよこたち」

「鮭なら死んでるひよこたち」(愛知県芸術劇場) 2月16~17日、福岡市・なみきスクエア

 

 2022年AAF戯曲賞(愛知県芸術劇場主催)大賞作の受賞記念公演。戯曲(守谷久仁子作)から読み取れるのは、現代人の生への絶望とそれを乗り越えた先にあるかもしれない希望だ。今の日本において公正とされる価値意識や市民への介入の度を強める公的なものへの違和が作品の土壌にある。「人づくり革命」「マイナンバーカード」「働き方改革」など国が近年推進する政策の方向性への疑念や、情や道徳が廃れる一方で規則や契約に縛られる社会の傾向への懸念が編み込まれ、ますます息苦しくなっていく人々の生が表現される。タイトルは、子育てと社会での役割に区切りがついた女性が人生の希望を失ったありようを、産卵後すぐに死んでしまう鮭の一生に対比した慨嘆に由来する。

 かつて小学校の校門付近で児童相手に怪しげな文具などを売っていたテキ屋がしばしばいた。本作は、昔の露店でよく見られたカラフルに着色されたひよこを、校門前で小学生に売りつけようとするテキ屋夫婦(田坂哲郎、スズエダフサコ)を軸に展開する。実はテキ屋業務は、公的機関から政府の構想に基づくある目的で委託されているとの設定。真っ当な人生を歩んできたと語る還暦の女性や町内会長(神戸浩)、貧困家庭の若者(リンノスケ)、委託業務の遂行を監査する公務員(遠藤麻衣)、テキ屋を取りまとめる理事長らが絡み、大人と子ども、男と女、社会や人間の表と裏といった要素が交錯する。

 前提として市民への暴力や犯罪、動物虐待は決して許されない。その共通認識に立った上で、芝居を通じて私たちは問われる。社会や政治の主潮となっている価値観によって、正しくない、合理的ではない、美しくないなどと判断される猥雑とした諸事や人間が社会の表から退けられようとされるのは果たして良いことなのか、不合理でも、無意味無価値に思えても、一見怪しげだったりしても、いろいろな考え方、生き方が、我々のうちにある存在として認められる社会で良いのではないか、との思索が通奏低音のように響いてくる。

 戯曲に流れるこのテーマを演出の羊屋白玉が、舞台上に印象深く表現した。ストーリーの進行を5回中断し、俳優5人が数分間ずつ戯曲の中身とは直接関係ないスピーチを行う。語られたのは、この芝居や共演する役者たちへの思い、自分の欲求や生き方、夫婦の意味への問い、芸術と社会の関係性を巡る思索……。おそらくはアドリブで、ユニークな思いをユーモアたっぷりに話す。五者五様の意見表明はなかなか面白く、決して現代の価値観に沿った画一的な意識に基づくものではない、むしろバラバラの価値意識を持った役者たちが芝居という一つの表現世界を現前させていることが伝わってきた。一見無意味で非効率な物事は人間の生にとって一概に退けられるものではなく、そういった人物や諸事を表現できる演劇やほかの芸術、その他の何事かに触れることで実は私たちは生を豊かなものとしていけるのではないか。そのようにも考えさせられた。

 福岡の演劇イベント「キビるフェス」参加作品。今月22、23日には札幌で公演する。(臼山誠)

「いま、反転のまっただなかで」

「いま、反転のまっただなかで」(ブルーエゴナク) 2月2~4日、北九州市J:COM北九州芸術劇場

 

 突拍子もないストーリーではある。地元小倉の繁華街が舞台。人間が支配する悪弊に満ちた社会に対し反旗を翻した地下世界のネズミの大群が人間たちを襲撃し殺していく。こう書くと殺伐とした救いのない展開にも思えてくるのだが、世間から白い目で見られがちなフリーターや酒場の客引きたちが人間の尊厳を守るため最後までネズミ軍団に抵抗する。ユーモアを交えつつ、閉塞感の大きい現代社会を乗り越えた先にあるであろう新しい人間社会への希望も抱かせる物語だった。

 ネズミの群れの襲撃という描写からは、ペスト→新型コロナへと容易に連想がつながる。ここ数年の新型コロナの蔓延による社会の閉塞が本作の契機の一つではあるのだろう。しかし、この作品の基層には、いったん社会の底辺に落ち込むとそこから這い上がることが世代を経ても困難な状況にある現代社会への憤りがあるように感じる。芝居に出てくる若者たちは、すでに人生をあきらめ、社会への期待もなく、自分のためだけに刹那的に生を保っていくかたちで描かれる。フリーターらを軽蔑することで自分の今の状況を肯定するアルバイトもいる。

 作・演出の穴迫信一が眼差しているのは、社会の表層には浮かんでこない、つまり社会の表にいる人々の意識から抜け落ちている、いわば「負け組」同士で足を引っ張りあう者たちの群像だ。これまで日本人が努力を積み重ねて築いてきたはずの社会の公正、公平などの常識的規範はこの「地下世界」では大きな意味をなさない。芝居の中では、彼らはかろうじて情といったもので支えられている。現代社会が抱えるこういった不条理が本作の背景にある。

 観客を物語に感情移入させるのではなく、舞台上に創造する世界をあえて客観視させようとする作風といっていいだろうか。観劇後に様々に考えさせられる作品だった。地上と地下の下水道空間の物語を同時進行させたり、ラジコンのネズミを使ったりした演出は面白かった。出演は悠太、姉川華ら。芝居に重みを付加させた寺田剛史や内田ゆみの演技が印象に残った。(臼山誠)

「ロマンス」

「ロマンス」(劇団こふく劇場) 1月13、14日(北九州市J:COM北九州芸術劇場

 

 宮崎のある町に暮らす市井の60歳代、40歳代、20歳代、20歳前後(?)の男女4人がそれぞれ人生の来し方を省みる物語。心に空虚を抱えた者が、死や別れによって喪失した大切な存在に思いを寄せ声をかけ、魂の触れ合いから心の穏やかさを取り戻す。自身の今のありようを肯定的に受け入れることで明日への希望が生まれる。

 そうした姿に客席の私たちは感情移入し、過去と向き合って心の隙間を埋めつつ前へ進もうとする気持ちが生じていることに気づく。ダイナミックなストーリー展開があるわけではないが、上演時間130分の長さを感じないほど作品に引き込まれた。

 芝居の後半、現実に子どもはおらずとも自分のこと以上に誰かを大切に思うことができる人は老若男女を問わずすでに「お母さん」であると語られる。小料理屋かスナックかを経営する40歳代の女性(かみもと千春)は、老いた母親のその言葉に救われ人生への希望を取り戻す。

 これは、作、演出の永山智行が観客に投げかけた言葉だろう。利己主義があからさまに幅を利かせている現代社会で私たちは他者の幸福を願う心を失いつつある。周囲の幸せに寄り添う心性を日常のものとして取り戻すべきではないか、演劇を通じてそう訴えている。この芝居で手掛かりとしているのが古来の人々の思索や感情への視線と洞察だ。芝居では、昔ながらの日本家屋の縁側、板塀などを配置した舞台美術、能や狂言を想起させる役者の所作、太鼓の音による場面進行などが表現される。60歳代男性(濱砂杲宏)が子どものころ、64歳の誕生日で死ぬと老女から予言されたエピソードからは、かつての村落で巫女的存在として認知されていた神がかりの「狂女」が浮かびあがる。夢や幽界との交遊も盛り込まれ、自然への畏敬を象徴する「声の木」(大西玲子)は人々の生活を見守る。

 これらは安易な懐古の情ではない。人々が古来営み続けてきた伝統や文化には人間の生にとって何らかの意味や価値があるはずだ。土地に根付いて生を豊かなものにしてきた何ものかを、そして現代にも通じる何ものかを探り当て、現在から将来に生きる人間のために掴みとろうとする能動的な行為だろう。

 4人の物語はオムニバス的に展開する。次第に交錯していくのだが、そのことは大きなトピックにはならない。本作を際立たせているのは、各場面でスポットが当たるのは一人のみとした演出だ。正面を向いて自分の来し方を語る者以外は、舞台後方に下がるなどして補助役に回る。古代ギリシア演劇風にいえばコロスの役割を担い、状況の説明や語りの相手として、焦点が当たっている者の心の動きを際立たせる。生(なま)の歌唱などの音楽が随所で芝居に起伏をもたらした。背景の板塀がパイプオルガンや都会のビル群に見える照明の工夫も面白かった。

 時代に埋もれてしまう市井の人間個々の生を優しいまなざしで掘り起こした佳作。濱砂、かみもとの演技には厚みを感じた。有村香澄、池田孝彰も好演。2021年初演の再演で全国9か所巡演の6か所目。2月にかけて広島、那覇、宮崎・三股でも公演する。(臼山誠)