「兎、波を走る」

「兎、波を走る」(NODA・MAP) 8月17~27日、福岡市・博多座

 

 メタバース(ネット上の仮想空間)と北朝鮮。まったく異なるはずの2つの空間が劇の中で重なり合っていく。NODA・MAPらしく鋭い社会批評に富んだ作品だ。演出や演技の妙にしばしば客席から笑いが起こるのだが、作、演出の野田秀樹の刃は芝居を楽しんでいる我々観客にも突き付けられていた。

 「不思議の国のアリス」「ピーター・パン」を素材にした二つの劇中劇が進行するかたちで物語は進む。前者からは、仮想のコミュニティーの中で現実と仮想の区別がつかなくなっていくメタバース、後者からは、戦後に地上の楽園の宣伝のもと在日朝鮮人が大規模移住した北朝鮮の過酷な迫害と監視社会が浮かび上がってくる。物語が進むうちに両者はオーバーラップする。その世界では、人々のデータが収集され、監視され、さらには運営者や権力者の利益のために管理され、行動を誘導あるいは命令される。自由を奪われている彼らは他者の痛みにも無感覚になる。メタバースアバターとして自由に交流しているつもりの人々に対して、野田はそこに自由などないことへの気づきを強く促す。そして、政治や社会における事象をじっくり観察し、思索したうえで行動することの大切さを訴える。

 おそらくは、利益増殖を図る資本によるデジタル管理社会化の潮流に躊躇なく乗ってしまい取り込まれてしまう現代人に対する悲嘆が野田にはあるのだろう。その潮流の土台には、ありとあらゆるものを商品化する性向を持つ資本主義の行きつく先としての今がある。

 古来、地域の共有財産だった川や山の恩恵が次々に商品化され、例えば水ですら営利企業に金銭を払って入手することが、豊富で安価な水道水がある日本でも当たり前になった。新自由主義の台頭以降は、この流れがすさまじく加速している。メタバースにいたっては、現実には存在しない不動産などまでもが高額で売買されているという。一方、この夏、びわ湖大花火大会の有料観覧席周辺に設置された目隠しフェンスが話題になったが、分け隔てなく皆で楽しめる風物詩であったものが、金を払った者向けの娯楽と化し、地元住民が締め出されるという、現代の「囲い込み」と言ってもいいような事態が平然と行われている。

 社会の流れに逆らってでも私たちは一度立ち止まってじっくり思索する必要があるのではないか。観劇後、そんな思いに駆られた。

 芝居では、オーウェルの「1984」やチェーホフの「桜の園」などを連想させる場面やAI活用など諸々の社会事象に対する風刺がたっぷり盛り込まれた。ち密な計算で成り立つ小道具や映像を使った演出と、松たか子高橋一生を中心に鍛えられたスピーディーな演技はさすがだ。野田らしい言葉あそびも楽しく、濃密な2時間余だった。(臼山誠)

「トピカぺニア」

「トピカぺニア」(FOURTEEN PLUS 14+) 8月5~9日、福岡市・ぽんプラザホール

 

 FOURTEEN PLUSではこれまで、家族や個人の過去の記憶と対峙する人間を描く作品が特に印象に残っている。現在は過去と切り離せないという当たり前だが重要なことを改めて確認させられるのだ。今作も若い女性が絶縁した母親の記憶にさいなまれつつ、その記憶と正面から渡り合い、心の傷を癒していく物語だった。

 昨年の安倍首相銃撃事件の山上容疑者をヒントにしていた。旧統一教会を連想させる宗教の熱心な信者である母親は宗教団体の指示に懸命に従い金をつぎ込む。ついに家計が破綻し、大学を中退せざるを得なくなった女性。母親と妹との関係を絶ち、なんとか就職先を見つけて前向きに生きていこうとするが、しばしばフラッシュバックする母親の記憶にさいなまれる姿をうまく描いている。女性の心を覆う影、あるいは心にこびりついて離れないしみのようにほぼ舞台に出ずっぱりの母親役、原岡梨絵子の円熟味が作品の味わいを濃くしていた。

 並行して新型コロナの初期対応などここ数年の社会事象に対する批評的要素が散りばめられていたが、作・演出の中嶋さとの特に強い問題意識は、組織の経済的利益の前に、法律や社会規範、個人の常識的な疑問といったものが背景化してしまいがちな現代社会の危うさについてだろう。

 女性の職場は、カビを使った食品や化粧品などを開発する研究所だ。実験が失敗し、有害化したカビの胞子が研究所内に付着、染み込み、腫れや痛みを発症する者が出たところから話が転がっていく。公的機関に報告し検証すべきだと主張する者、研究の過程ではこの程度の事例は普通であると報告に反対する者、リコールに発展すれば多額の経費が必要になるため<拙速に>報告するのは企業の利益に反すると説得する者。

 最近のビッグモーターの事件をみてもわかるように、組織の風土に馴染んでしまうと、それがたとえ異様な価値基準に基づくものであったとしても、働く者たちは違和を感じなくなってしまう。芝居では思い切って正論を述べた女性の職場内での孤立を暗示させる幕切れが効果的だった。終盤、ビッグモーターで話題の除草剤というワードが出てきたのには思わず笑ってしまった。

 登場人物8人のうち半数がダブルキャストで、雪丸朋美、佐藤柚葉らが出演するチームグリーンバージョンを観劇。9月1、2日には韓国・釜山でも公演する。(臼山誠)

「些細なうた」

「些細なうた」(非・売れ線系ビーナス) 7月1、2日 福岡市早良区祖原 NIYOL COFFEE

 

 若くして高い評価を受けていた早世の歌人、笹井宏之(2009年没)の短歌からはしっとりとした情景が立ち昇ってくる。決して写生的という意味ではない。我々常人では体感することができない、現実と異界の接地点にあるとでも言えばよいのか、常識的な言葉ではつむげない、彼特有の飛躍した言葉による合理的概念を超越した情景である。

 その笹井の歌から立ち昇る世界を演劇的に表現しようとした公演だった。劇団主宰の田坂哲郎は2011年に同タイトルのラジオドラマを書いて以来、その後演劇化してツアーを行うなど10年以上にわたって笹井の作品と向き合っている。

今作は歌そのものから触発された肉体表現であったり、創作した文章の朗読から演劇的な物語に導いたり、禅問答のような言葉の掛け合いからリズミカルな音楽的抑揚へ昇華させたり、短歌の朗誦を聞いて複数の風景写真から一枚を選ぶゲームに観客を巻き込んだり、いくつかのパフォーマンスを連続的に上演した。観客は視覚、聴覚、嗅覚などを異なる角度から次々に刺激され、確かに笹井の感じたであろう世界に接近したような感覚が芽生える。

 元来、言葉の力を大切にしてきた劇団だと思う。今回は、まず短歌や文章といった言葉があり、そこから生み出した演劇的空間の中で五感を刺激し、笹井の短歌世界を再生しようとしたと言っていい。それは、笹井自身が、彼が感じとった情景を彼特有の言葉をつむいで短歌という言語表現に落とし込んだのとは逆向きのベクトルとでも言い表せばよいだろうか。

 上演時間50分を一日に4回公演。回ごとにパフォーマンスなどの構成を変え、異なる風景を感じさせる工夫をしていたそうだ。鑑賞したのは1コマのみだったが、別の回も見てみたいと思わせる面白い試みだった。演出は木村佳南子。(臼山誠)

「ピノキオの偉烈」

ピノキオの偉烈」(夏木マリ 印象派NÉO vol.4) 6月10、11日、J:COM北九州芸術劇場

 

 ピノキオの著名な場面をピックアップし、ダンスパフォーマンスと豊かな色彩の映像、音楽とを融合させた表現で魅せる。心躍る90分間だった。

 おもちゃの国、学校、「星に願いを」が流れる夜空、芝居小屋、大ザメ(もしくはクジラ)のおなかの中など、次々に場面が移り変わる。いたずらっぽく楽しいポップな表現もあれば、観念的で黒や灰色をベースにした色彩のシーンもある。背景の画像が浜辺の松の木だったり、人形浄瑠璃と操り人形のピノキオが相対したりするなど和のテイストも作品の味わいに彩を添える。

 ピノキオを演じる土屋太鳳のパフォーマンスに引き込まれた。妊娠中であるのを考慮してか衣装もふんわりとしたものに工夫され、操り人形らしいカタコトとした雰囲気のダンスや表情の作り方がうまい。終盤の人間になってからのなめらかな動きへの変化も印象的だった。ダンス集団「マリナツキテロワール」との激しくも息の合った動き、ピノキオの生みの親であるゼペット(夏木マリ)、ピノキオを見守り続けるコオロギ(マメ山田)や妖精、そしてずる賢いキツネと子分の猫との絡みも楽しかった。

 ラストでピノキオは舞台前方に座りこんで視線を宙に浮かせ一人たたずむ。重い音楽の中、照明が暗くなった背後の舞台ではダンサーたちがビニールを使ったパフォーマンスを繰り広げ、不穏な空気感を生じさせた。それは人間ピノキオの心象風景であったかもしれない。果たしてピノキオは人間の子どもになることができて本当に幸福だったのだろうか。操り人形であることから解き放たれて自由を得たはずのピノキオだが、その後、世知辛い人間世界で何を考えつつ生きていったのだろうか。子ども向けの単純なハッピーエンドではない物語の深みを演出の夏木マリは表出させたのだろう。落ち着かない余韻が心の中にくすぶり続けている。(臼山誠)

「陽のあたる場所へ」

天神ビッグ・バン!バン!バン!bom.8地下鉄七隈線延伸開業スペシャル「陽のあたる場所へ」(ギンギラ太陽's) 6月5~8日、福岡市・天神劇場

 

 福岡市地下鉄七隈線の博多までの延伸や商業ビル「ミーナ天神」のリニューアルオープンなど最近の福岡の町の動きを中心に題材にした時事的短編集。小品6本に流通や交通の話題をギュッと凝縮した。全体を通しての主役は延伸で日の目を見ることになった七隈線なのだが、冒頭の作品が特に印象に残った。福岡空港の「門限」に間に合わなかったJAL機の羽田空港への引き返し(今年2月)、北九州空港を試験飛行の拠点とするはずだった国産ジェット機の開発断念(同)といったニュースに、北九州出身の漫画家松本零士氏の訃報(同)などを絡め、笑いの中にしみじみとした人情を醸し出した。

 言うまでもないがギンギラのユニークさは、関係者の心情やその歴史の丁寧な取材を基に擬人化した商業ビル、乗り物などのキャラクターにある。デフォルメした演出やセリフ、被り物などによって、地元の人々たちが町や公共交通のありように対して薄々抱いているであろう潜在意識を刺激する。テーマの性質上、どうしても説明調になりがちなところを、うんちく臭くなり過ぎずに起伏に富んだ一つのストーリーに練り上げて観客を芝居の中に引き込む。観劇後に町に出ると、本来無機質のビル群が、血の通った温かい肉体を伴って生き生きとしているかのような感覚が確かに沸き起こってくるのだ。現在進行形の天神の話題を当の天神で上演する意味はそこにもあるだろう。新生「ミーナ天神」や「天神ビジネスセンター」などのキャラクターが登場したが、作品を重ねてどのようなキャラに成長していくかも楽しみだ。

 ギンギラの特徴の一つは、福岡の町を応援しつつ、行政や経済界、企業の論理に一定の距離を置き、一住民としての立ち位置からの批評性を帯びた作風だといっていい。今作は、ネットショッピングの攻勢に対してリアルな町のにぎわいを守るため天神と博多の商業ビルたちが協力して立ち向かっていこうとするシーンで終わった。これは作・演出の大塚ムネトの主張であろう。一方、ネットショッピングに当たり前のように親しんでいるのも、郊外の大型ショッピングモールへ魅力を感じてしばしば出かけるのも観客を含む我々市民であり、そういった人々を含めて福岡という町がある。福博都心域を核に福岡の町を描いてきた大塚が、天神ビッグバンで大きく変貌する福岡の町と激しくIT化する社会の潮流を、今後どう咀嚼し表現していくのかも興味深い。

 豊かな表情でタフな演技も軽やかに演じる女優陣が光った。また、遠慮がちではあるが、観客を舞台に上げたりいじったりする演出が復活し、コロナ明けが間近であることを感じさせた。出演は大塚のほか、上田裕子、宗真樹子ら。(臼山誠)

「きなこつみ物語」

「きなこつみ物語」(劇団きらら) 5月12~15日、熊本市・ギャラリーキムラ

 

 60分余りと短い作品だが強い訴求力があった。世間と対峙してもがく人間に対する信頼が、劇団の過去作と同じく本作にも色濃くにじんでいる。そして作・演出である池田美樹の人間の内面の掘り下げ方がますます深くなったように感じる。

 舞台は今から10年前の2013年。ショッピングモールのテナント、だんご屋で働く30歳代ごろとおぼしきアルバイトの女性2人(森岡光、オニムラルミ)と、新入りバイトの男子大学生(磯田渉)の3人の交流を、男子学生の視線でユーモラスに描く。

 東日本大震災原発事故後の社会的不安にまだ濃密に覆われていた時期。さらに当時の30歳代といえば、就職氷河期が直撃した世代だ。ワーキングプア、負け組、自己責任などの言葉がまとわりつき、極言すれば、日本社会から捨て石のように扱われた人々が多い世代ともいえる。震災後にもてはやされた「絆」という言葉と裏腹に、日本人同士の心理的つながりの分断の進行に歯止めがかからず、人々は自分や家庭のことで精いっぱいとなり、社会の中から支えあい助け合う心性がますます失われっていったことが、本作のせりふや演技の節々からも伝わってくる。

 劇中の女性2人はそれぞれ人生の悩み、葛藤、苦しみを抱えている。つらかった過去、充足できない現在、希望が持てない将来。公正に見えつつ弱者に冷たい世間に押しつぶされそうになりつつも、なんとか生きていこうと踏ん張る。かりそめかもしれないがバイト同士の励ましで獲得したプラスのエネルギーを糧に頑張って生きる彼女たちの姿に心を打たれる。10年後となった現在はどのように生きているだろうか。連絡をとりたい気持ちもあるが今を知ることを恐れる、かつての男子学生のラストでの逡巡が心に染みる。

 利己的な価値感に一層馴染んでいるであろう今の私たちに、時代のひだに埋もれてしまいかねないミクロな生、同じ時空に生きる一人ひとりの生から決して目を背けてはならないことを思い起こさせる強靭な主題。コロナ禍で劇団としての自主公演は3年半ぶりだそうだ。この間、思索を深めたであろう池田の今後の作品も楽しみだ。他に池田と手島一が出演。(臼山誠)

「スピノザ —— 読む人の肖像」

スピノザ —— 読む人の肖像」(岩波新書國分功一郎

 

 荘子スピノザ石牟礼道子。この3人は私の中で一つにつながっている。

 三者が共有するものは何か。人間はもとより、生きとし生けるもの、さらには山川草木、石ころにいたるまで、この世のありとあらゆるものは等しく尊きもので、区別されるものではない。そこに優劣といった概念などは生じないという認識、思索、感情である。

 渾沌であり無為、無限である道(「荘子」)。無限であり完全である神(スピノザ「エチカ」)。荘子においては、万物は道から分節されたものですべての存在、虫けらや屎尿にも道はある。スピノザによれば、すべての個物は神の様態であるゆえに完全な存在でないものはない。個体間の区別、差別、価値の差などという思考は人間の身勝手な分別であり、効率などを追い求める賢しらな人為を遠ざけ、自然の法則、理に従って生きようと我々をいざなう。「椿の海の記」に代表される石牟礼道子の文学世界はまさにそういう世界である。陸の上のものも、水の中のものも、すべての存在が喜びに満ちた交歓を行う。

 スピノザは近世合理主義哲学者と分類される。近代哲学の扉をこじ開けた一人なのだが、神秘主義と評されることもあるのは、西洋哲学の合理性を超越した思想を含有しているからだろう。常々、老荘哲学や中国仏教の禅と親和性があると感じていたが、本書の「エチカ」第5部についての解説を読み、ますますその意を強くした。スピノザは彼自身の表現するところの<観想>によって、荘子と同様の境地に至ったのではなかろうか。

 本書によれば、「エチカ」第5部は、言葉では説明、理解、伝えることが不可能な<直観知><至福><真理><自由>などの領域について述べているのだという。<真理を実際に獲得する前に、真理の何たるかだけを知ることはできないのであって、実際に真理を知る者だけが真理の何たるかを知るのである>。また、<自由は至福と同様、言葉で説明されるのではなくて、経験されるものである><第三種認識という意識のあり方がもたらす結果である>。<自由>や<至福>の領域は、言葉で伝達できないのだから他者と共有できない。言葉にできない領域の認識を(観想によってふとした拍子に?)獲得した者だけが経験し自己充足できるのみである。

 これはつまり、仏教でいうところの悟り、荘子ならば「遊」という究極の境地への到達ではないのか。もちろん本書にはそんなことは書かれていないのだが、現代日本をリードする哲学者である著者の國分功一郎スピノザ哲学の密教的な性格には触れている。

 空間と時間という形式によってしか人間は物事を認識できない、人間は物自体を認識しえないというカントの哲学系譜が現代も根強い。しかし、スピノザの哲学にはその認識の限界を突き破り、人間の生き方を導くであろう何ものかに肉薄する能動的な力があるのではないか。そんな思いに駆られている。(臼山誠)