「スピノザ —— 読む人の肖像」

スピノザ —— 読む人の肖像」(岩波新書國分功一郎

 

 荘子スピノザ石牟礼道子。この3人は私の中で一つにつながっている。

 三者が共有するものは何か。人間はもとより、生きとし生けるもの、さらには山川草木、石ころにいたるまで、この世のありとあらゆるものは等しく尊きもので、区別されるものではない。そこに優劣といった概念などは生じないという認識、思索、感情である。

 渾沌であり無為、無限である道(「荘子」)。無限であり完全である神(スピノザ「エチカ」)。荘子においては、万物は道から分節されたものですべての存在、虫けらや屎尿にも道はある。スピノザによれば、すべての個物は神の様態であるゆえに完全な存在でないものはない。個体間の区別、差別、価値の差などという思考は人間の身勝手な分別であり、効率などを追い求める賢しらな人為を遠ざけ、自然の法則、理に従って生きようと我々をいざなう。「椿の海の記」に代表される石牟礼道子の文学世界はまさにそういう世界である。陸の上のものも、水の中のものも、すべての存在が喜びに満ちた交歓を行う。

 スピノザは近世合理主義哲学者と分類される。近代哲学の扉をこじ開けた一人なのだが、神秘主義と評されることもあるのは、西洋哲学の合理性を超越した思想を含有しているからだろう。常々、老荘哲学や中国仏教の禅と親和性があると感じていたが、本書の「エチカ」第5部についての解説を読み、ますますその意を強くした。スピノザは彼自身の表現するところの<観想>によって、荘子と同様の境地に至ったのではなかろうか。

 本書によれば、「エチカ」第5部は、言葉では説明、理解、伝えることが不可能な<直観知><至福><真理><自由>などの領域について述べているのだという。<真理を実際に獲得する前に、真理の何たるかだけを知ることはできないのであって、実際に真理を知る者だけが真理の何たるかを知るのである>。また、<自由は至福と同様、言葉で説明されるのではなくて、経験されるものである><第三種認識という意識のあり方がもたらす結果である>。<自由>や<至福>の領域は、言葉で伝達できないのだから他者と共有できない。言葉にできない領域の認識を(観想によってふとした拍子に?)獲得した者だけが経験し自己充足できるのみである。

 これはつまり、仏教でいうところの悟り、荘子ならば「遊」という究極の境地への到達ではないのか。もちろん本書にはそんなことは書かれていないのだが、現代日本をリードする哲学者である著者の國分功一郎スピノザ哲学の密教的な性格には触れている。

 空間と時間という形式によってしか人間は物事を認識できない、人間は物自体を認識しえないというカントの哲学系譜が現代も根強い。しかし、スピノザの哲学にはその認識の限界を突き破り、人間の生き方を導くであろう何ものかに肉薄する能動的な力があるのではないか。そんな思いに駆られている。(臼山誠)