「正三角関係」

「正三角関係」(NODA・MAP) 9月5~11日、J:COM北九州芸術劇場

 

 長崎原爆と対峙した野田秀樹渾身の作品。長崎原爆をモチーフにした野田演劇には「パンドラの鐘」(1999年)もあるが、「正三角関係」はさらに二十余年の思索を蓄積し、深くかつ直接的に原爆と人間について掘り下げたものだ。10年余り前に取材で野田にインタビューした際、「パンドラの鐘」制作のきっかけは大英博物館に展示してあった中国製の釣り鐘を見たとき、その形から長崎に投下された原子爆弾の形が連想されてならなかったことだとしたうえで、「英国の友人から『それは、ヒデキが日本人、しかも長崎出身だからだ』と言われた。人間はプライベートな『私』から逃れられない。長崎に生まれたという事実は、自分の核心だと意識している」と語っていた。今作では、長崎への原爆投下という歴史的事実を直視することから、人間を大量に虐殺する兵器の開発へとかき立てた「合理的精神」の狂気を表現しようとした。

 芝居自体は「カラマーゾフの兄弟」を下敷きにして戦時中の長崎に舞台を移し、裁判劇として進む。原作同様、3兄弟と父親その他の周囲の人物を巡る物語なのだが、徐々に、日本の軍部や対ロシア(ソ連)外交の大きな物語が浸潤してきて、原爆で長崎が壊滅し人々が死ぬ場面で終わる。色鮮やかなボールを使った量子力学研究のダンスシーン、半透明の大きな幕を使ったきのこ雲など演劇的表現に見るべきものも多い。だがそれ以上に、ドストエフスキーの原作にある「神のいない世界ではなんでも許される」との趣旨のセリフをキーにして、神への信仰や道徳などが科学的には余計なものとして排除された世界の狂気を問う主題がストレートに浮き上がってくる。主演で長男役の松本潤が怒りを露わにして長崎の焼け野原に立つラストシーン、その背後に有名な写真「焼き場に立つ少年」を想起させる役者が死んだ幼い弟に見立てた人形を背負ってそっと現れる。胸を衝く終幕だった。

 物理学者で神を信じぬ次男(永山瑛太)が狂気の世界を体現した。数式に囲まれて生きる彼は軍部の指導のもと他の研究者たちと共に原子爆弾の研究にまい進する。目指しているのは、アメリカより早く、科学の力の限り大規模な破壊力を有する原子爆弾を完成させること。なんの躊躇も良心の呵責もなく開発にいそしむ。殺戮されるであろう膨大な数の人間などは彼らにとって数字や記号に過ぎない。ただひたすら科学的目的遂行のために必要な合理的思考を突き詰める。その世界には道徳心や信仰心に基づく博愛などの感情や知性など研究の邪魔になるものは存在すらしない。

 現実の歴史では戦争末期に日本陸海軍の二つの原爆開発計画は頓挫した。しかし、もしアメリカより早く完成していたとすれば、戦局転換を果たそうとアメリカのどこかへ投下したのだろうか。少なくともその動機はあっただろう。戦後、日本は唯一の戦争被爆国として平和国家を自任し核廃絶を訴え続けてきてきた。しかし、原爆を相手国へ投下することを目的に開発を進めた当時の軍部や研究者の精神は米国の当事者と少しも変わらないのではなかったか。大量破壊兵器で敵国民に甚大な被害をもたらすことへの痛痒が日本の側にだけあったと果たして言えるだろうか。原爆を巡っても加害国と被害国は表裏一体であったのであり結果に過ぎなかったことを野田は改めて突き付ける。近年、政治的にも社会的にも核兵器を容認する風潮が広がる様相に大きな憤りをもって警鐘を鳴らしているのでもあろう。

 タイトルの「正三角関係」とは、一人の女性を巡る長男と父親の関係や三兄弟の関係などであるだけでなく、当時の日本とアメリカ、ロシアの国家関係に変移していく。破滅的な戦争を続ける日本とアメリカ。両者にいい顔をしつつ最後には勝ち馬にのって対日戦争を始めたロシア。それぞれが自国の利益と勝利のためにゲーム理論的な思考に基づいた行動をすることは変わらない。笑いながら原爆を投下する機中の米兵、原爆が投下されることを事前に知りつつ長崎市民を見殺しにするロシア領事夫人、戦局転換のために核開発への情熱を絶やさぬ日本人研究者。人道の尊厳への敬意など彼らは共通して持っていない。劇中でソ連ではなくロシアと表現されるのは、ウクライナ侵攻を続ける現代ロシアへの批判もあるのだろうか。

 芝居は作、演出の野田らしい遊び心に満ちたエンタメ要素がふんだんに盛り込まれ、楽しくて時間があっという間に過ぎていく。検事役の竹中直人の存在感が大きく、弁護士役の野田とのはちゃめちゃなやりとりが大変面白かった。そして、妖艶な女性と純朴な青年を手品のような早着替えで演じ分ける長澤まさみの演技には華があり魅入った。松本は舞台俳優としても今後飛躍するのかもしれない。可能ならばリピートしたい作品だった。今月後半から11月初めにかけて、大阪、ロンドンでも公演する。(臼山誠)